虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ハドソン川の奇跡」

toshi202016-10-26

原題:Sully
監督:クリント・イーストウッド
脚本:トッド・コマーニキ



 「私は英雄ではない。」USエアウェイズ1549便の機長、チェスリー・"サリー"・サレンバーガー (トム・ハンクス)は何度も言う。


 映画の冒頭場面。大都会のビル群を縫うように飛ぶ旅客機。機長のサリーはエンジンが壊れた機体をなんとか空港までもたせようとしている。だが、奮闘もむなしく、旅客機は墜落を余儀なくされる。
 サリーは飛び起きる。「あの事故」から幾度となく見る夢だ。


 「なぜあの時、私はそうしたのだろう。」


 サリーは何度も何度も自問する。


 あの日。2009年1月15日。サリーは機長として「ハドソン川への不時着水」を強行した。離陸直後、鳥がエンジンに入って破壊する「バードストライク」それによって両翼のエンジンを破損する事故。なんの問題もないフライトになるはずが、前代未聞誰も経験したことのない状況に叩き込まれた。
 その不時着水によって、彼は166人の乗客を無事生還させ、彼は一躍メディアの寵児となった。だが、その彼の「行動」を問題視したのが、国家安全運輸委員会であった。彼らは言う。「もっと安全に乗客を生還させる道があった」と。
 残された機体のデータ。それによるコンピューターシミュレーションによって、左エンジンは生きており、空港に引き返すのがもっとも安全に乗客を返す方法だと結論づけられた。


 サリーは一職業人として問う。何度も自分に。なぜ。なぜ私はそうしなかったのだろうか。ハドソン川へ向かったのだろうか、と。


文庫版 魍魎の匣 (講談社文庫)

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 人は何かをしたあとに、その行動の「理由」を考える。ミステリーにおける「動機」である。しかし、それは大抵、後付けの理由に過ぎない場合がある。
 「通りものにあたるようなもの。」京極夏彦百鬼夜行シリーズでは犯罪の「動機」をそう説明する。そうしたいときに、そういう場面、そういう状況に触れてはじめて人は犯罪を犯すか犯さないかの岐路に立たされる。人は大抵は「目的」があって「犯罪」を犯すのではなく、「その状況」に立ってみて初めて「犯罪に手を染める/染めない」の選択を迫られるという考え方である。


 あの日。サリーは、機体をハドソン川へと向けた。そのせいで彼は、これまで築きあげてきたキャリアと、信頼と、財産をふいにするかもしれぬ危地に立っている。妻にも問われた。
 「なぜハドソン川へ向かってしまったの?」と。
 乗客の命を危険にさらしたことはまちがいない。失敗すれば確実に死んでいた。それよりも空港で着陸する方がリスクを冒さない最善の道だったはずだ。そんな事はわかっている。でもあの日。あの時。あの状況。どう思い返しても、それが最善の道だったとしか思えないのである。
 事故後のデータ、コンピューターによるシミュレーション、さらにはパイロット達によるシミュレーターでの事故再現。その全てが「空港に戻れた」と示している。だが、彼の元には残っている。あの日、果たしたサリーの「ハドソン川の不時着」こそ、「完全なる仕事」、「胸を張れる仕事」であるという実感が。


 クリント・イーストウッド監督は、実話である「USエアウェイズ1549便不時着水事故」の機長の、事故後に起こった「疑惑」と、それに対峙する苦悩を軸に、このベテランパイロットがあの日行った「奇跡」はどうして起こったかを解きほぐしていく。
 毎日行うルーティーンに思える仕事。だが、機長も副機長も、優秀なる添乗員たちも、常に事故に対する備えや心構えをしながら日々をすごしている。「乗客を目的地まで届ける。」その「仕事」を為すために、あらゆる状況に対応するために、事故が起こればあらゆることを調べ、どう対策をすればそれが防げたか。それを考えてきた。
 この映画の「かたきやく」にも思える「国家安全運輸委員会」もまた、「その当たり前」の「仕事」をより安全に探り、事故に対して最善の方法を検証していくのである。
 だから、サリー機長は最後まで「国家安全運輸委員会」の指摘に真摯に向き合い続けるし、何度も自身の仕事は「最善」だったかを問うのである。


 そして、サリーは迷いの中でひとつの突破口を見つけ、「疑惑」を検証する公聴会へと望むのである。


 ボクは思う。「通り者に当たる」というのはなにも「犯罪」だけではないんじゃないかと。積み上げられてきた「仕事」、目に見えない「不断の努力」、「乗客を無事に送り届ける」という当たり前の「仕事」を為すためにあらゆる対策をもうけ、チェックしてきた、その「目に見えない仕事」が、想定では「あり得ない事態」に直面してきた時に、「奇跡的な判断」を起こさせるのではないかと。
 「奇跡」もまた「通り者」の仕業と言えるのでは無いか。奇跡を為すべき「人」が、その「状況」にいるからこそ、「奇跡」は起こりうる。


 ボクがこの映画を見て、涙が止まらなかったのは、イーストウッド監督が「仕事」というもの、「不断の努力」を必要とする仕事に携わる人々への、大いなる敬意と愛情を感じたからに他ならない。

 2009年1月15日。あの日、あの時間、あの機体。そこに、経験と努力を怠らないベテラン機長、チェスリー・"サリー"・サレンバーガーがいて、そして彼が、彼自身の「仕事」をした事が、「奇跡」だったのだと。彼だけではない。想定外の事態に取り乱さず冷静に向き合った副機長ジェフ・スカイルズ 、冷静に乗客を誘導した添乗員、トラブルを起こさずに従った乗客達、いち早く救出に向かった救助隊、彼らがそろっていて初めて、「奇跡」はなしえたのだと。


 サリーは言う。「私は英雄ではない。仕事をしただけだ。」と。「最高の仕事」、「胸を張れる仕事」を。そんな彼が「そこにいた」ことこそが、奇跡なのだと解き明かす。クリント・イーストウッド監督の演出は、それを決して大仰には描かず、リアルに、そして真摯に演出する。またひとつ、イーストウッド監督は傑作をものにした。イーストウッド監督も、この映画で「偉大な仕事」を果たしたのである。超・大好き。(★★★★★)