虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「インビクタス/負けざる者たち」

toshi202010-02-08

原題:Invictus
監督:クリント・イーストウッド
製作総指揮:モーガン・フリーマン/ティム・ムーア
脚本:アンソニー・ペッカム



 映画というのは「有限」な表現である。


 CGがこれほどまでに発達し、表現できるものが格段に増えた。CGはなにもかもを視覚化できる表現方法になった。もはや、物語世界のなにもかもを「コントロール」することが可能な領域にまで進化し、深化しているのは間違いがない。だが、映画とは何もかもを描くことができない。上映時間は一般的に1時間半から長くても4時間近く。映画とは登場人物たちの人生を、どのように切り取るか。ということである。


 本作は、マンデラ大統領とラグビー南アフリカ代表がなし得たある実話についての映画であるが、ひとつ。この映画が真に面白いのは、この映画がその話を「どう切り取ったか」ではないか、と思った。


 よくイーストウッドが「神の視点」の作家、という言い方をされる。つーかボクも使ったことがあるのだけれど、それは登場人物と監督の「距離感」ゆえに「そう見える」だけなのかもしれないが、その距離感は「優しい」距離感だとも癒えるし、ときに「冷たい距離」になることもある。だが、それでもなお、イーストウッドの映画が人のこころを揺さぶるのは、きちんと登場人物を理解して「演出」した上で、距離を保つ「慎ましさ」にあるのではないか、とここ最近思うようになった。

 そしてこの映画もまた、ネルソン・マンデラへの果てなき敬意と、決して踏み込みすぎない慎ましさが、この「深イイ話」レベルに落とされかねない「美談」を「映画」にしてしまうマジックを見せている。


 さて。
 ここで、僕が以前書いた感想の一部を引用する。


私を滝まで連れてって「カールじいさんと空飛ぶ家」
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20091219#p1

 気になったのは、じいさんが冒険に出る目的である「美しい記憶」を頭に持ってきたこと。正直言えば、それはあとで流せばいいものではないか?最初から観客が、じいさんの動機を一から十まで知る必要はない。どうしても、というならせいぜい、「チャールズ・マンツ」と「冒険ブック」が出てくる、少女時代のエリーの出会いで止めておけば良かったのではないか、と思う。妻との美しい記憶の場面はそれこそ、終盤に「冒険ブック」を見返すシーンで流せば良かった気がする。美しい記憶そのものが彼の半生そのもののように見えてのは、明らかな失敗だと思うのだ。じいさんの人生は、美しい記憶ではなく、幻滅するような現実や、妻との生活以外にも、さまざまな喜びや悲しみが色々あったはずなのだ。そういう部分を想像する余地を残さずにじいさんの人生を「規定」してしまったのはつまらないことだと思った。


 ぼくらはネルソン・マンデラという人物を、ある程度は知っているし、ネットを検索すればあらゆる情報が出てくる、「生ける英雄」のひとりだ。反・アパルトヘイトの活動家で、27年という投獄生活を経て釈放され、南アフリカ大統領選に出馬し、見事当選を果たす。

 この映画は大統領になったマンデラが、自分が政治のトップになったことで逆転した人種意識と、アパルトヘイトの二の舞を起こさずに白人と黒人、「過去は過去である」という姿勢を自ら鮮明にし、白人を感情的に扱うことなく、ともに未来へ生きること方向へ「導く」姿勢を、抑制されたタッチで描き出しながら、やがてそのひとつの成果としてのラグビーのワールドカップでの、南アフリカ代表「スプリングボグズ」が起こした奇跡の物語へとつながっていくのだけれど。


 イーストウッドがこの「英雄の美談」を語りたかった「だけ」の映画ではない、と思ったのは、本当にイーストウッドネルソン・マンデラという人物がたどってきた、その道程と運命に負けない「インビクタス(不屈)」な魂に敬意を持っているからだと思う。
 この映画はイーストウッドが本当に描きたかったものを描いていない。それは「ネルソン・マンデラが獄中にいた27年」である。


 終身刑で獄中にあり、絶望の中にいても決して正気を失うことも希望を捨てることもやめず、そこから大統領という職に就きながらも、強い信念で白人と黒人の融和を心から望み、実行した「ハートの鉄人」。そんなマンデラという英雄がどのようにして生まれたかを、イーストウッドは描きたかったはずだ。しかし、決してそこには踏み込まない。
 そして「スプリングボグズ」のキャプテン、フランソワ・ピナールたちに、かつてマンデラがいた収容所を訪れさせ、ピナールに収容所時代のマンデラにありありと思いを馳せ、ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの四行詩「わたしは自分の運命の支配者だ。 わたしは自分の魂の統率者だ」という一説を引用して、それをマンデラに朗読させるにとどめている。


 27年。いや、27年というのは今だから言えることで、いつ果てるともしれぬ永遠とも思える絶望の期間。それを経てなお、かれは白人を「赦し」、ともに未来へ行こうという。そこへと至るこころの道行きは、我ら凡人には到底及びもつかない葛藤があったに違いないのである。
 イーストウッドは畏敬を感じればこそ、そこには踏み込まず、そこから生まれた「不屈」という名の魂が、強い思いが、白人であるフランソワ・ピナールに、そしてチームメイトのひとりひとりに浸透していき、やがて一つの成果として結実していくまでを、真摯に追って行くことに徹したのである。


 表現方法が豊かになればなるほど、何を足すか、ではなく、何を引くかか重要になる。映画の鉄人、イーストウッドはそれを知っている。
 表現せずに、表現する。描かないことで、最大限に描く。映画は有限だからこそ、表現をより深化させることが出来るのである。この映画も又、その深化のひとつのカタチだ。不屈の人生への限りない畏敬に満ちた傑作である。(★★★★★)