虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ヘルプ 心がつなぐストーリー」

toshi202012-04-14

原題:The Help
監督・脚本:テイト・テイラー
原作:キャスリン・ストケット


 黒人への差別が色濃い60年代アメリカ南部・ミシシッピー州が舞台の群像劇。


 
 この映画がいまさら黒人差別の声高な告発映画ではないのかな、と思いながら見ていた。白人婦人会会長を務めるヒリー(プライス・ダラス・ハワード)の、黒人メイドへのある種無邪気にも見えるほどの明快な差別意識の描写が、あまりにも鮮明なのについ目を奪われがちになるけれども、この映画は言ってみれば「婦人会」という女系コミュニティの閉塞に汲々となっている女子たちと、彼らの「母」であり「雇われメイド」でもある黒人女性たちのコミュニティが、この映画の世界観の基本線。
 母代わりだった黒人メイドへの慕情から、黒人差別を先鋭化させる白人女子のコミュニティから距離を取ろうとする作家志望のスキーター(エマ・ストーン)、コミュニティの「ボス」の元カレと結婚したためにハブられるシーリア(ジェシカ・チャスティン)という白人女子にもはぐれ者たちがいて、そして、最下層に白人女子コミュニティの差別に振り回される黒人メイドたちが、さまざまな事情から、協力し合い、または絆を深めていく。
 この映画には、男性はその流れの外にいて、決してその流れをかき回したりはしない。


 この映画は人種差別の告発というよりも、「閉塞的なコミュニティは誰も幸せにしない」という、別の命題があるように感じられる。そもそも「婦人会」は「若くして家庭に入り、子供を育てなければならない」という、当時の女性意識の旧弊に縛られた女性たちの組織である。あまりに若くに妊娠するため、産後うつになって「育児放棄」をして、育児を黒人メイド・エイビリーン(ヴィオラ・デイヴィス)に丸投げにする白人女性も描かれる。
 婦人会のボスであるヒリーは差別意識ゆえに黒人との軋轢も辞さない態度を崩さない。彼女たちは決して黒人メイドなしでは生きられないけれど、それは黒人メイドとて同じこと。それゆえに、彼女は攻撃的な態度をゆるめることはない。ミニーを首にし、別に雇った黒人メイドの女性の借金を断った挙句、指輪を質に入れられると泥棒として告発するえげつなさ。黒人メイドに肩入れする母親を老人ホームに送るなど、ヒステリックな攻撃性はエスカレートする。
 それゆえに彼女は、閉塞を打破しようと、手を取り合ったスキーターと黒人女性の横のつながりによって、さまざまな逆襲を仕掛けられることになる。ここがこの映画の、カタルシスであることは間違いない。黒人メイド・ミニーの「●●●クッキー事件」、そしてその話を黒人メイドたちの声を集めた本の一編として全米の衆目にさらされてしまう。
 被差別者が差別者に勝利する物語。そのカタルシスに観客は酔いしれる。


 しかし、物語の落としどころを見て「おや?」と思うのは、その後、ヒリーがエイビリーンを泥棒の嫌疑をかけて職を失わせようとするシーンでのことだ。エイビリーンはぐいとヒリーの前にでると「疲れませんか?」と問いかける。その瞬間、ヒリーは逃げるように玄関前に走っていき、嗚咽する。
 本当に「助け」を求めているのはだれなのか。この映画で本当に「哀れ」なのは誰なのか。差別が「当たり前」になり、社会によって植えつけられた差別意識によって肥大化した自意識で、閉塞した女系コミュニティの中で居丈高に振舞う、ヒリーその人ではないか、とこの映画は言っているように思えた。彼女はいまだスキーターやミニーが閉塞から抜け出した後でも、閉塞の檻に囚われたままの、一人の哀れな女性なのである。
 それゆえに、職を甘んじて辞し、雇用主である女性と、わが子のように育てた彼女の幼子に別れを告げ、決然と歩いていくエイビリーンの後ろ姿は、一冊の本によって閉塞から解き放たれたがゆえに、とても雄雄しく美しくみえるのである。(★★★★)