「テロ,ライブ」
原題 The Terror Live
監督・脚本:キム・ビョンウ
なぜ。どうして。誰が。どうやって。
この映画はそんな情報を観客に与えない。いきなり事態は動き出す。
ラジオの生放送。時事の討論番組。キャスターはひとつのテーマを聴取者と語り合う。その日の最初の電話。つながったのは建設作業員を名乗る男。テーマとは違う話をし始める男に、MCを務めるキャスターは作業的に対応し、電話を切り次の聴取者の電話へ。
ところが、電話は切れず、男は回線を割り込んでキャスターに話しかける。CMタイムに入り、スタッフが男を説得するも、電話先の男は折れない。言いたいことが言えていないという。男は言い放つ。「これから漢江の橋を爆破する。」
いらついていたキャスターは男の電話をいたずらと受け取り、「じゃあ、やってみたらいい。」と吐き捨てるように言うと、CM明けに改めて放送を仕切りなおす。と、その刹那。地面から響くような轟音。スタッフが窓へと駆け寄るのを見てキャスターも立ち上がりその方向を見る。
局のある高層ビルの窓の外から見える漢江にかかる橋で爆発が起きていた。電話先の男の言ったとおりに。男は「またかける」と言って電話を切った。
テロ。爆弾テロだ。キャスターは男が名乗った名前をメモに取りながら、考えをまとめつつ警察に通報しようとする。が・・・あるひらめきが彼の心を支配する。「独占」。局の単独スクープのチャンス。つながった警察の電話を「間違い電話」として切り、彼は「男」の電話を生放送しようと動き出した。
キャスターの名前はユン・ヨンファ。かつて国民的人気を誇ったニュース番組のアンカーマンだった男。彼はニュース番組への復帰を条件に、この単独スクープをテレビの緊急生放送へとこぎつけるのだった。ここ数ヶ月で失った名誉、名声、誇り、愛。すべて取り戻す!人生一発逆転を狙うヨンファの、綱渡りの「テロ犯人とのライブ放送」が幕を開けた。
この映画のどこがすごいか。一言で言えば、主人公・ヨンファ目線に特化し、いずれ「判明」する真犯人の目線を入れなかったことにある。
人間、作り上げ練り上げた物語の全てを、映画の中で語りきってしまいたくなる生き物である。作り上げた犯人像、その動機、なぜ主人公を巻き込み、そして、どうやって一連の犯行を行ったのか。この映画は一切の説明をしない。
その代わりにヨンファが一発逆転を賭けた生放送は次第に泥沼にはまり込み、やがて事態は次第に彼の思惑を越えて悪化していく姿をひたすらに追う。
犯人は無茶な要求をヨンファに突きつけ、ヨンファは困惑する。テレビ局には21億円の出演料を要求し、支払ったらその事をあっさり放送中にに暴露。そして、犯人は要求する。数年前起こった橋の修繕現場で起きた死亡事故。その謝罪を大統領に生放送でしてほしい、と。
犯人との攻防は一刻一刻と変わっていく。視聴率を取ってアンカーマンに返り咲きたいヨンファ。だが、上司は「大統領謝罪」の要求を聞いた途端、その要求をつっぱねろとヨンファに言う。ヨンファが拒絶するとラジオ番組での悪態の録音を流し、ヨンファを脅す。
上司の判断で一端、女性アナウンサーに対応を変え、ヨンファはスタッフブースで俺に戻せと抗議する。女性アナウンサーは上司の指示通り要求を毅然と拒絶しつづけていたが、やがてスタジオの中で爆発音が響く。女性アナウンサーを狙った銃声だった。
ヨンファはあわててスタジオに戻り、犯人との電話に出てテレビ局を敵に回すな、と説得する。と、突然耳からナゾの異音が。イヤホンからだ。犯人からは意外な言葉を聞く。
「お前の耳に爆弾を仕掛けた。」
いつ、どこで、誰がこんな細工を・・・!
爆発現場のレポートには元妻・イ・ジスもいて、何より自身の命が懸かっている。犯人の脅しに屈する形で、ヨンファは犯人の要求である「大統領の謝罪」を放送を通じて呼びかける。自身の命と自分のアナウンサーとしての未来、愛する人の為に、改めて犯人と対峙することになる。
野心を抱くプロフェッショナルとしての顔、愛する人を思う顔、社会正義と野心に狭間で揺れる顔、不正を暴かれ動揺する顔、自身の生命の危機におびえる顔。刻一刻と変化する状況に翻弄されるヨンファの揺れる心を、ハ・ジョンウは心を「押し隠し」ながら、時に人間的な表情を見せることで体現している。
そして、事件は意外な終着を見せることになるのだが。
この映画には見終わっていくつかの疑問が出てくるはずだ。「なぜ主人公を選んだのか。」「どうやって主人公を巻き込んだのか。」「あのイヤホンの「爆弾」は誰が仕込んだのか。」などなどだ。
しかし、主人公はあくまでも「巻き込まれた側」であり、仕掛けた側のことなど断片的にしか知り得ないのは、考えてみれば当たり前のことだ。
この映画は非常に緻密な理詰めで展開する脚本の中で作られている。当然犯人の動きも理詰めで描いているはずである。自分のキャスターとしての名声、取り戻したい失いかけた愛、報道者としての社会正義に燃える心と相反する要素を抱え込んだ主人公、寝技のうまさでは主人公のはるか上を行き、出世のためなら人質の命も他人の人生もゴミ屑にしか思わないクソ上司、空気を読まずに犯人を挑発する警察庁長官、犯人逮捕のために主人公を誘導するテロ対策班の女性捜査官など、様々な人間の思惑がスタジオの中でぶつかり合い、先が読めないながらも、非常に理に適った脚本である。
当然犯人がどう動くかを想定してあるはずである。犯人がどう動いたのか。そして、それを確認しに俺はこの映画を3回も見てしまった。←術中。
犯人が主人公にイヤホン爆弾を仕掛けるタイミングも実に巧妙に計算されたカット割りが施されていたりする。見れば見るほど、真犯人は主人公に対して、「すべてを話していない。」と確信する。
実を言うと、イ・ビョンウ監督はどうやって犯人がこの犯行を行い、なぜこの犯行に主人公を巻き込んだか、脚本の中にきちんと説明を入れていたのだそうだ。ところが、映画の「スピード感」のためにばっさりとその部分を削ったと、パンフレットのインタビューの中で言及している。つまり、そこまで作り込みながらあえてその部分を消したのだ。
この部分を読んで、僕は深く感心した。監督デビュー作、しかもわずか30代前半でこの「引き算」が出来るセンスと度胸!この監督はただ者ではない。
以前僕はこんなことを書いたことがある。
この映画はイーストウッドが本当に描きたかったものを描いていない。それは「ネルソン・マンデラが獄中にいた27年」である。
終身刑で獄中にあり、絶望の中にいても決して正気を失うことも希望を捨てることもやめず、そこから大統領という職に就きながらも、強い信念で白人と黒人の融和を心から望み、実行した「ハートの鉄人」。そんなマンデラという英雄がどのようにして生まれたかを、イーストウッドは描きたかったはずだ。しかし、決してそこには踏み込まない。
そして「スプリングボグズ」のキャプテン、フランソワ・ピナールたちに、かつてマンデラがいた収容所を訪れさせ、ピナールに収容所時代のマンデラにありありと思いを馳せ、ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの四行詩「わたしは自分の運命の支配者だ。 わたしは自分の魂の統率者だ」という一説を引用して、それをマンデラに朗読させるにとどめている。27年。いや、27年というのは今だから言えることで、いつ果てるともしれぬ永遠とも思える絶望の期間。それを経てなお、かれは白人を「赦し」、ともに未来へ行こうという。そこへと至るこころの道行きは、我ら凡人には到底及びもつかない葛藤があったに違いないのである。
イーストウッドは畏敬を感じればこそ、そこには踏み込まず、そこから生まれた「不屈」という名の魂が、強い思いが、白人であるフランソワ・ピナールに、そしてチームメイトのひとりひとりに浸透していき、やがて一つの成果として結実していくまでを、真摯に追って行くことに徹したのである。表現方法が豊かになればなるほど、何を足すか、ではなく、何を引くかか重要になる。映画の鉄人、イーストウッドはそれを知っている。
何を足すかではなく、何を引くか。この判断こそが、映画監督の資質の大きなポイントである。
緻密に作り込みながら、映画をソリッドに作り込むためにあえて「引く」。この決断を出来る監督は実はそう多くはないと俺は思う。あくまでもこの映画はすべてを語らないし、説明しない。ただ、次々と襲い来る事態に翻弄され揺れ動きながら、必死に戦う主人公の姿がそこにある。
この判断は自分の作った「物語」に自信があればこそ出来ることである。つくづく脱帽である。
そして主人公が最後に行う、ある決断。その向こう側に映り込むもの。非常に挑発的なラスト。繰り返し見ることで想像力をかき立てられ、そして、より強度が増す映画である。傑作。(★★★★★)