虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「さまよう刃」

toshi202014-09-12

原題:Roving Edge
監督:イ・ジョンホ
原作:東野圭吾


 家族と過ごすとき、僕らは「今日は家族と会う最後の日だ」と思いながら家を出ることはない。たとえ関係が冷え切っていたとしてもだ。


 父親はしがない繊維会社の管理職。娘は思春期盛りの中学生。重い病にかかった妻の介護で娘にかまってあげられずに数年間過ごしたツケは、冷え切った関係となって現れた。それでも。それでも父親(チョン・ジェヨン)は娘を愛していた。
 その日も娘は、父の呼びかけに応じることなく家を出た。父親は哀しげにその背中を見送るだけだった。


 父親に警察から連絡が来たのは、仕事のトラブルを抱えて慌しい最中であった。少女がレイプされた挙句薬物を投与されて亡くなった女性の死体が発見されたので、確認してほしいという警察からの連絡。警察はそれが娘だという。だが、父親は微塵も信じてはいなかった。早く済ませて仕事に戻らないと、納期が間に合わない。上司にもどやされる。どこかの不良少女ならともかく、うちの娘がそんなことになるはずはないのだから、と。
 死体安置所に寝かされていた死体の顔は・・・娘であった。


 感情のありかがわからずに呆然とする父親の元に届く、死んだはずの娘のケータイから来た一通のメール。そこには犯人の名前と住所を伝える内容だった。そのメールに導かれるように父親は、書かれた住所の場所へと向かう。そして、父親はそこにやってきた少年が再生したビデオの「音」を聞いた。
 それはまさに娘が犯される現場の音だった。血が滾る。脳が沸騰する。感情が噴きあがる。父親はその少年をバットで叩き殺す。


 こうして復讐の鬼と化した父親の、哀しき復讐劇が幕を開けた。


 この映画の主人公は被害者の父親であるが、この映画にはいくつかの語り手がいる。少年犯罪の容疑者をキツく取り調べて厳重注意を受けた刑事、レイプ殺人を行った少年たちの使い走りをさせられていた少年、そして逃げるレイプ殺人犯の少年である。


 だが、被害者少女の視点だけは、実はない。


 復讐するということはどういうことなのか。それはおそらく、少女のためではない。自分のためなのだ。自分が、娘を、愛している。だけど、娘はどうなのだ。そう思いながら過ごしていた父親にとって、何を思いながら娘が死んだのかなどということは、ついにわからぬままのことだ。もうとっくに父親のことなど見限っているのかもしれぬ。でも、それを知るのは怖い。
 しかし、ビデオの娘の声を聞いた瞬間、「何をすべきか」わかってしまった。社会からは決して許されない、しかし人間の本能の中に眠る、「すべきこと」を。


 いつかまた、俺に向けられていたかもしれぬ娘の笑顔。俺に向けられているべき笑顔が、残忍で狡猾でケダモノのような少年たちに奪われた。そいつらを皆、殺す。復讐だ。


 容赦なき演出の中で描かれる少年犯罪の生々しさと、復讐の激情。原作では電話や手紙などが伝達ツールだったが、本作ではケータイやスマホのメールが復讐者となった父親が情報を得るための重要なツールとなっており、そのおかげで映画のスピード感も大変早い。事件に関わった男たちのあらゆる願望がないまぜとなり、父親の復讐は二転三転しながら転がり続け、やがて、父親が最後に行う「決断」へと導かれていくまでを、パワフルに描くその推進力には、今の韓国映画の勢いを感じずにはいられない。


 イ・ソンミン演じる刑事の視点から見た、殺人犯となってしまった父親を容疑者として追いながらも、彼の心情への多分の共感してしまう自身との葛藤、加害者となった少年の親たちの動揺などもフォローしつつ、犯罪を犯した少年の「更生」する姿を見守りながら、それによって少年の人生の「踏み台」になってしまった者への鎮魂を語る目配せも忘れない脚本が白眉である。



 この映画に正解はない。どのように転んだとしても救われない話であり、ただ、ひとつの事件に向き合う人々のやるせない感情の渦がとぐろを巻く。
 父親が見る「あるべき未来の幻視」は娘の実像か、それとも願望か。それはわからない。あらゆる人々の願望に揺られながら、復讐に心囚われてしまった、哀れなる平凡な父親の物語だ。(★★★★)