虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ウォール・ストリート」

toshi202011-02-04

原題:Wall Street: Money Never Sleeps
監督:オリバー・ストーン
脚本:アレン・ローブ


 23年である。

 23年ぶりの「ウォール街」の続編。


 「ウォール街」をこの映画を見る前に見た。バブル前夜とも言うべき、1985年のウォール街を舞台にした、その映画思ったのは資本主義社会の申し子とも言うべきゴードン・ゲッコーと、彼のような存在になりたいという野心を持つ主人公の「師弟」の関係が、主人公の「家族」に危機をもたらすことで、主人公とゲッコーは決別する。その流れの中では、ゲッコーはあくまでもひとりの「怪物」であった。
 しかし、ゲッコーは前作のラストで、インサイダー取引の容疑で逮捕され、以降彼は凋落の一途をたどり、ウォール街から事実上追放される。


 彼が消えても、世界は動き続ける。
 前作「ウォール街」では、資本流動の中で労働とそれに見合う対価をを得る、というシンプルな資本主義のカタチは終わりを告げ、金融という名の魔窟で、搾取し、搾取されるものを生み出す「ウォール街」の狂気を、その体現者としてのゲッコーと、ブルーカラーの家庭出身でありながら彼に憧れを抱き、やがて決別するチャーリー・シーン演じる青年との関係性の中で描いていた。
 しかし、23年という時間の中で、アメリカの経済状況はさらに狂騒の度合いを増している。有限な「資本流動」の原則は崩れ、人々の購買欲を刺激するためなら、借金を際限なくしてもかまわない、という常識が蔓延し、アメリカの経済状況は完全に飽和状態に突入していた。


 2001年、ゲッコーが出所したとき、彼の手元にはなにもなかった。家族すら迎えに来ない。それでも彼は、ウォール街への反転攻勢への機会を得るために、動き出した。


 さて。
 映画において「経済」を扱うのは難しい。経済という名の魔物は常に流動的であり、システムは常に変化している。
 23年。その時間は世界の地図を塗り替えるのに十分な時間である。ゲッコーは、彼が前作の時得た、有り余るカネの代償として、20年以上の時を経てもなお、一線に復帰できずにいた。
 「かつての」経済界のカリスマとして、「現在の経済社会の病理」について書いた著書を足がかりに講演会めぐりをして「小金」を稼ぎながら、虎視眈々と反撃の機会を待つゲッコーの元に、その「機会」をもたらしたのは娘の婚約者を名乗る、投資銀行に勤める青年であった。天啓。育ての親を「殺された」青年の復讐に手を貸しながら、ゲッコーは20年近い時の中で壊れてしまった娘との橋渡しを、青年に依頼する。


 前作はゲッコーを「ウォール街」を象徴する「怪物」として見立て、一般の労働者を代表する価値観を代表する主人公の父親と対比させることで、「ウォール街」という名の楽園の狂騒を描いているけれども、かつての楽園を追われたゲッコーが見る、今のウォール街はもはや自分の価値観をさらに推し進めた「システム」を確立した存在として変化したことを、この映画は描く。
 もはや、ゲッコーは「怪物」ではなく、老境を迎えた一人の「人間」としてウォール街と対峙する。


 かつてゲッコーは時間を無駄にすることなく、手段を選ばず投資で常に成功することでウォール街で名を馳せた。だが、その代償は人生の20年以上の「時間」を喪うことであった。ゲッコーは、「本能」としてもはや金融の仕事に復帰する以外に自分の復活する道はない、と思っていて、その本能に忠実に生き続けているが、しかし、老境を迎えた一人の人間として、かつて喪った様々なものを悔恨する気持ちの間で揺れ動いてもいる。
 この映画はウォール街投資銀行や株主だちの欺瞞やシステム化された「インサイダー取引」などの病理を描くけれど、しかし、前作のような「社会派作品」としての色が薄まってみえるのは、ゴードン・ゲッコーという存在が、ウォール街を代表する「怪物」から、ウォール街を取り巻く一人の「人間」にシフトしたからではないかと思う。


 ウォール街の崩壊の予感を描く一方で、映画は新たな世代への「希望」を託す。ジェイコブがかつての養父の「復讐」が始まる契機となるのは、ゲッコーの娘が運営している「非営利」(!)のニュースサイトであったり、生まれてくる新しい命や、古い技術よりも新しい技術で世界を新たな方向へ導くことへの「希望」をあっけらかんと描いたりもする。ウォール街の現実を描きながらも、その先を見据え、語るエンターテイメントとして、面白い映画になっていると思います。(★★★★)