虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「英国王のスピーチ」

toshi202011-03-10

原題:The King's Speech
監督:トム・フーパー
脚本:デヴィッド・サイドラー


 「裸の王様」という童話がある。
 傲慢な王様が仕立屋にだまされて、裸で街を練り歩き、子どもに指摘される。「王様は裸だ」と。


 その「童話」は「王様は国民の前ですべてをさらけ出すものではない」という前提があるからこそ、寓話として生きる。
 現代においては、封建主義の王制の時代は終わりを迎え、議会制民主主義が進んだイギリスで、王家はカタチだけの存在となった。その分、イギリス王家は着込んでいた上着を少しずつ脱いでいく必要が出てきた。
 それでもなお。王族は裸になることは許されない。威厳と尊敬を勝ち取るためには、すべてを国民の前にさらすことはできないからだ。


 時は第二次世界大戦の足音が近づく1935年。


 20世紀中盤のイギリス王家は、少しずつ国民と接点を持つ必要が出てくる。王族は王族としての「声」を国民に差し出す必要が出てきた。「義務」と言い換えてもいい。様々なものが進化していくなかで、技術の進化は「ラジオ」というメディアを生み出し、それを通じて王家は国民と新たな接点を持つことになった。
 王族は「メディア」に対応することを迫られる。しかし、その「メディア」に対応することが出来ずに苦しんでいる人がいた。ヨーク公。のちのジョージ六世である。


 ヨーク公は「吃音」、いわゆる「どもり」であった。他人の前に出ると声が出なくなるのである。自分が弱い人間である、と知っている。だが彼は王族としての「ペルソナ」をかぶり続けなければならない。その仮面と内実の差に苦悩する。そんなヨーク公の姿を見て、夫人は単身で町へ出て、ひとりの「言語障害スペシャリスト」を見つけてきた。名をライオネル・ローグという。
 ライオネルの治療の前提は、王族であるヨーク公を驚かせる。彼は対等に名前で呼び合うことを要求してきたのだった。


 「英国王のスピーチ」は面白い実話の映画化であると同時に、ある種の寓話を含んでいる。それは現代人が抱える「ペルソナ」と「内実」の差から生まれる軋轢である。
 ローグは治療を通して、ヨーク公の心に何十にも巻かれた上着を一枚一枚はぎ取っていく。彼の治療の経験から、吃音は幼少期のトラウマから生まれていることが多いという事実を知っているからだ。

 ヨーク公は「話せない」わけではない。親しい人間とは普通に言葉を発することができる。ローグはその事実をヨーク公に突きつける。大音響の音楽を聴かせながら、ヨーク公シェイクスピアの「ハムレット」の一節を読ませ、それをレコードに録音したのだった。
 ヨーク公がローグから受け取ったレコードからは、よどみなく「ハムレット」を朗読するヨーク公の声が聞こえてくる。


 「横柄な言語療法士」と「偉そうな患者」という関係だったローグとヨーク公の関係は、互いの信頼関係を深める中で、ヨーク公は心の鎧を解き放ち、やがて彼の中のトラウマの種が見えてくる。


 息子たちに「恐怖」を求める父親、誰からも愛される自由奔放な兄の狭間で苦労し、左利きやX脚の矯正、さらに乳母の陰険ないじめを受けた幼少期の記憶。王族の仮面をかぶり続けるなかで、誰にも語れなかった心の奥にしまいこんだ過去を吐き出し、その上で、今を生きる力をつけること。これがローグの、言語療法士としての「治療法」であった。


 そして。この映画にはもうひとつの側面がある。世紀の純愛として物語化されたヨーク公の実兄「エドワード8世」の「王冠を賭けた恋」の裏にあった物語である。
 エドワードは、2度の結婚歴のあるウォリス・シンプソン夫人との恋に身をやつしており、彼女と是非とも結婚したいと思っていた。しかし、王太子であるエドワードは、王を継ぐと同時に教会の長になる人間だが、教会は離婚歴のある女性との結婚を認めていない。父王の死後、「王冠を取るか、恋を取るか。」を迫られ、エドワードは、決断する。「王冠」を捨て「恋愛」に生きることを。
 その結果、ヨーク公は、英国王・ジョージ六世になった。


 この「純愛物語」においてヨーク公は棚ぼたで王冠を得た脇役の弟である。しかし見方を変えれば、ヨーク公は「純愛」の被害者でもあった。ヨーク公は、自分が王にふさわしい人間だとは思っていなかったからだ。
 時代は急速に戦争の色を増していく。王はより毅然とした言葉を国民に届けなければならない。この難局に対して、彼が頼ることになったのは王家や教会のチカラではなく、裸の自分を知る、ローグであった。


 伝統の中に、自由の風が吹き荒れるイギリス王室に翻弄された人生を送った一人の「弱い人間である英国王」と、王の裸の心を知る「役者にあこがれるオーストラリア人」の物語は、やがて、ラジオのマイクの前でひとつのクライマックスを迎えることになる。
 この物語は決して「保守的」な物語ではない。王族の人間が、一人の人間として、「外国人」の前で心を裸にする事から生まれた友情を描いた、「革新」の物語なのである。(★★★★)