虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「グッドナイト&グッドラック」

toshi202006-05-08

原題:Good Night and Good Luck
監督:ジョージ・クルーニー


 エド・マローについての映画である。だが、これだけでは正確ではない。「キャスター」エド・マローについての映画である。偉人の伝記ではない。一人の職業人と、その仲間たちの物語。


 第2次世界大戦後の冷戦構造、共産主義の影におびえていた1950年代初頭。アメリカの核独占が崩れ、冷戦構造が明確になったタイミングを見計らったように、共産主義の恐怖を利用して台頭した上院議員マッカーシーらが扇動した赤狩りの時代が訪れていた。共産党のスパイ、という密告によって、労働者が、マスコミが、映画関係者が、次々と職を失っていったアメリカの「夜」の時代。
 その時代、エド・マローは、報道番組「シー・イット・ナウ」に携わっていた。その番組の締めにこう言った。


 「GOOD NIGHT,AND GOOD LUCK」


 だれかが声を上げねばならなかった。だが、それが出来ぬまま世は、流れていた。
 ロンドン大空襲などのラジオでの戦争報道で名を上げ、テレビに活躍の場を移した後も公平な報道を第一としてきた彼が「マッカーシーと対決する」姿勢を鮮明にしたのは、本人には何の問題もないのに、家族を共産党員と疑われ除籍になった空軍予備士官のことを取材したことだった。マッカーシーを恐れる局上層部はマローに放送の自粛を求めるが、彼は言う。「この事件を私の良心に問いかけながら考えた。どう考えてもおかしい」。
 彼の良心に恥じぬ報道をした彼に、マッカーシーは妨害をしかけてきた。マローが共産党の手先である「証拠」というデマを局に送りつけたのだ。誹謗中傷と恐怖で人心を縛ることマッカーシーのやり口である。その陰険なやり口が、愛国者でもあるマローにマッカーシズムとの対決を決意させることになる。


 ジョージ・クルーニーの監督としてのスタイルは、驚くほどストイックである。前作「コンフェッション」でもそうだったが、必要以上の虚飾を嫌う。師匠筋とも言えるスティーブン・ソダバーグをさらに生真面目にしたような演出をする人である。なんせ劇判すらつかわない。大仰な演出というものをそぎ落としてそぎ落としていく監督だ。
 だからこそ、この映画において明快なのは報道人たちに対する並々ならぬ敬意である。なんせかっこいいのだ。デヴィッド・ストラザーン演じるマローは言うに及ばず、モノクロのスクリーンのむこうでジョージ・クルーニーら同僚が紫煙をくゆらせながら会議をする場面の「画」になり具合は尋常じゃない。
 この映画は父をキャスターに持ち、自らもかつてテレビキャスターを志したことのあるジョージ・クルーニーが、彼のヒーローである、エド・マローという一人のプロフェッショナルへの敬意に満ちた物語なのである。


 この映画で面白いのは、ジョージ・クルーニーは、あえてマッカーシーに俳優を立てずに、マッカーシー本人の当時の映像を使ってみせたことだ。物語はあくまでもテレビ局とその周辺で進行し、マッカーシズムが横行する世相は、あくまでも物語の「背景」として対置されている。監督の側に意図があるかないかはともかく、結果的にこの選択は、マローたちの「やり口」を踏襲してみせることになった。
 マローたちにとって「取材対象」(この映画の場合、マッカーシー)はあくまで「素材」である。彼らは映像を駆使してマッカーシーの「恫喝の手口」を暴いていく。その上で、マローはマッカーシーに反論の場の機会を与え、その上で再販論することで、確実に彼を追いつめていった。外堀から埋めていくようなこのエド・マローたちの戦略は「共産主義者がいるぞー!」という「嘘」と「恫喝」でのし上がってきた「狼少年」のような男には効果てきめんだった。
 なんせ、エド・マローは画面映えのする渋みがっかったいい男であり、なにより実直なジャーナリストとして売ってきた男だ。「生」で、そう、「生」でカメラを前で主張することで、キャラクターを確立してきた男だ。そのマローにケンカを売ったマッカーシーは、チンケな恫喝屋であることを喝破されてしまえば、映像の上ではただの脂ぎったおっさんである。まさにエド・マローは、裸の王様を、冷厳なカメラの映像によって浮き彫りにして「裸じゃん?」と世間に見せつけてしまった。メディア戦でのし上がったマッカーシーだったが、テレビという映像メディアに本気でケンカをさせてしまったのが、彼の不覚だった。
 編集という虚構が見せる真実と、マローの生身の説得力が、時の権力を文字通り丸裸にしたのだった。


 無論、このマローたちの「やり口」はジャーナリズムの見地から言えば、禁じ手を使っているとも言えた。意図的な映像編集によって、一人の人間を貶めてみせたのだ。だが、それはお互いさまなのだ。マッカーシーもまたメディア戦略を駆使したのだから、これは戦争である。黙っていては、彼らの誇りと矜恃が失われる。やむを得ず抜き身の刀を抜き、死闘の末に巨悪を斬って捨てて見栄を切る。そして一言。


  「GOOD NIGHT,AND GOOD LUCK」


 遠山の金さんの「これにて一件落着」のような格好良さ。
 しかし、マローたちも無傷ではいられない。彼の弟子で同僚の記者だったホレンベックはバッシングに耐えきれず自殺、マローたちの番組もクイズ番組の台頭を境に縮小され、彼らにとって冬の時代がやってくる。時代を救った男の苦い勝利。
 巨大な権力と戦って傷つくのはいつの時代も変わらない。この映画における、マッカーシーという名の「背景」は、実は別の何かにさしかえることも可能だ。手段は変わっても、マローたちが持ち続けたジャーナリズムの矜恃は時代を超えるのだと信じたい。


 この映画は回顧の映画ではない。現在の映画なのだ。(★★★★)