虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「悪人」

toshi202011-01-23

監督 李相日
脚本 吉田修一/李相日
音楽 久石譲


 下高井戸で落ち穂拾い


 えー。全然関係ないんだけど。


 以前、録音したナインティナインのラジオをぼんやり聞いていたときに、岡村隆史加藤ミリヤ西野カナを比較話になったとき、西野カナはどっちかというと「純粋な恋愛」を歌うけれども、加藤ミリヤは「二番目でもいいから捨てないで欲しい」という、男への依存が高い、だまされやすい女の子の気持ちを歌う、という指摘をしていた。
 ぼくは加藤ミリヤの歌をよく聴いているわけではないので「へえー」などと思いながら、聞き流していたのだけれど。


 で、まあこの「悪人」を見てふいにその件を思い出したのは、劇中に加藤ミリヤの歌が流れたからである。


 この映画の発端は、ひとりの女性の、ある男への執着から始まっている。



 石橋佳乃は、久留米から福岡に出てきて、保険の外交員をしながら、夜は出会い系サイトで性欲を満たす。けれど、本当に好きな相手である大学生・増尾圭吾にはメールのやり取りこそすれ見向きもされずに、友達にそいつと付き合っていると見栄を張る
 その日。餃子にビールとたらふく食べた後、呑み友達に本命彼氏とのデートと偽って出会い系で知り合った土木作業員との逢瀬の、その待ち合わせ場所に行く。その場所に偶然、彼女の思い人・増尾が現れる。運命を感じて積極アプローチ、その冴えない土木作業員をあしらって、彼の車に乗り込む。

あなたがよかった/たとえどんなに/傷ついたとしても /どうして私じゃないの?/あのコのもとへ帰らないで/いちばんに/愛さなくていいから /お願い/側にいさせて抱きしめて/嘘でもあのコより/私を好きだと言って

 その彼の車の車中で、ふいに加藤ミリヤの「aitai」が流れる。「私、この歌スキ!」ふいにそう、彼女は言う。歌を聴きながら心を重ねたこともあるのであろう。やっと惚れた相手の車でふたりきり。気分も高揚し、一方的に話しかける。だが、その日、食べた餃子がムードを壊し、彼の方はみるみる不機嫌になっていく。
 そして、その不機嫌がついに爆発する。そして彼は言う。あんたは好みじゃない。どんな男の車にも乗る安っぽい女は嫌いだ。車から降りろ、と。

せっかく会えたのに/冷めた態度/強気なあなた/叶わない恋と分かっていても追いかけるなんて/ねぇ馬鹿でしょう/少しでも問いつめたら/あなたはもう会ってくれなくなるでしょう/わがままは言えないよ/どうしてもあなたじゃなきゃだめなの

 恐怖を感じ、急いで降りようとする彼女を、彼は後ろから足蹴りで突き飛ばし、車で走り去る。
 蹴られた拍子に鉄橋の柵?に頭を強打し、痛みにうめきながら、倒れている。夜の、人気のない国道。車の通りは少ない。そこに一台の車が近づいてくる。
 さっき彼女があしらった土木作業員の車だった。その男の名は清水祐一という。


 数日後。彼女は国道脇の河原で死体となって発見される。


 この映画に出てくる人々は逃れられぬ連環の中にいる。
 母親に捨てられ、祖父母に育てられた清水祐一は、祖父母の面倒を見るために地元に残り、土木作業員を続けている。高齢化が進み、若者の数が激減した漁村で出会いがまったくない暮らしの中で、祐一青年は出会い系サイトに「本気の出会い」を求めていた。
 だが、佳乃にデートを断られ、目の前で別の男の車に乗り込むのをみて、あの日、祐一の「渇望」はドス黒い感情となって、彼を飲み込んだ。
 そして。事件以後も、彼は再び少しずつ狭まっていく連環の中へと戻っていく。


 繰り返し繰り返し繰り返し。被害者・石橋佳乃も、加害者・清水祐一も、被害者の父親も、加害者の祖母も。そして加害者の青年と出会い、一緒に逃避行をすることになった馬込光代も。同じようなどんよりとした生を生きている。
 彩度を落とした画面、俳優や女優の持つ美しさではなく、追い詰められた人間が持つ「生」な人間の顔を、この映画は切り取る。種田陽平氏のあえてごちゃっと混沌としたセットの中で、薄くのばされたような絶望を抱えた人間たちがうごめく。そんないつ終わるともしれぬ「繰り返し」を脱したいと思っていた青年が、結果として犯してしまった「あやまち」は、連環を脱するどころか、徐々に人々の環の幅をせばめていく。


 人はその連環が狭められれば狭められるほど、激しく逸脱しようとするか、その輪の中で萎縮していくしか、道はなくなっていく。
 それでも人に希望があるとするならば、それはやはり、「出会い」なのかもしれぬ、と思う。被害者の娘を車から放り出した青年の前で、レンチを力一杯握りしめ振りかぶり、それでもなお、踏みとどまった老父のそばには、彼を少なからず理解する若者がいた。サギに遭い、殺人犯の祖母としてマスコミに追われる婆さんが、バス運転手の一言で、人として持ってる強さを取り戻した。


 人は希望を持てばこそ動き、時にはそこに絶望が待ち構えている。希望と絶望は、決して分けられぬ裏表。だけど、絶望の先にもまた希望はあるよ。ただし、生きてさえいれば。とこの映画は言う。
 祐一は、「悪」を為した後に光代と出会い、「愛」を知ることで、自らの行った「悪」に対して悔恨を抱く。一方、被害者を殺しこそしないが、被害者を車から突きだした大学生の増尾は自らの行いを悔いることもなく、まるで誇るように仲間に吹聴する。
 社会的には祐一が「クロ」で、増尾は「シロ」。だが人としてはどちらが「悪」なのか。


 そして、主人公が罪を犯すきっかけを作った、石橋佳乃に対しても、この映画は手をさしのべることを忘れない。彼女が、祐一に投げつけた悪罵は、周りを「うすっぺらな嘘」で固めてきた彼女の「生の感情」が噴出した言葉は、結果、彼女を死に至らしめることになる。彼女がその言葉を口にしなければ、もしかしたら、清水祐一は彼女を死に至らしめることはなかったかもしれないのに。
 彼女のことを「自業自得」と斬り捨てることもできる。本当に悪かったのは祐一ではなく、彼女だとも。でも、「お前は悪くないよ。」と、親父さんが彼女の幻に傘を差し出し、そして彼女の幻が傘の影からふっといなくなるシーンは、「愛しさ」を素直に幻に告白した父親によって、彼女の存在が肯定され、救済されたようにボクには思えました。


 人は善か、悪か。この単純な二元論を、世間は突きつけて、人をその二つで分類しようとする。
 しかし、人は常に、善も悪もともにある。この映画は「悪人」についての映画であるとともに、「悪人」という言葉の残酷さを浮き彫りにした映画なのだと強く思ったのでした。(★★★★)