虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ソーシャル・ネットワーク」

toshi202011-01-16

原題:The Social Network
監督:デビッド・フィンチャー
脚本:アーロン・ソーキン



  「光あれ」
 旧約聖書の「創世記」によると、天地創造する際、神ははじめにこう言ったとされる。そして光は生まれた。一晩で、


 「あんたがモテないのは、オタクだからじゃない!性格サイテーだからよ!」
 映画「ソーシャル・ネットワーク」によると、とある青年に彼の恋人「だった」エリカ・オルブライトは別れ際、こう言い放った。そして、世界的SNSフェイスブック」は生まれた。一晩で、ではないけれど。


 青年の名はマーク・ザッカーバーグという、19歳のハーバード大学生だった。
 ハーバード大学には、アメリカの大学に存在する「フラタニティ/ソロリティ」のような社交団体がないかわりに「ファイナルクラブ」と呼ばれる結社的社交組織がある。ファイナルクラブは8つあり、どれも入会には厳格な審査があった。そんなクラブに入れて、なおかつ体育会系男子でイケメンなら、女性達の羨望の的だ。マークはそんなクラブからは声がかからない。
 そんなクラブのやつらが女性達とバカ騒ぎをしている中、彼女にフラれてひとり寮に帰ってきたマークは、彼女への憤懣やるかたない思いを抱えながら、コンピューターの前でビールを飲み、酔った頭でこの気持ちを解消させる方法を思いつく。


 自らのブログに酔った勢いで彼女を悪罵するエントリーを上げたあと、彼は寮にある学生名簿にハッキングして全女性生徒の画像データーを抜き取り、全女生徒の美醜を格付けするサイト「フェイスマッシュ」を立ち上げた。数少ない友人の一人・エドゥアルドとともに作り上げたサイトは話題を呼び、1晩で2万2000アクセスというアクセス数を叩きだし、結果寮のサーバがパンク。マークの行為は学校中に露見した。彼は学校からは半年の保護観察処分を受け、なにより学内の全女生徒から嫌われることになった。
 彼の「蛮行」が載った学内新聞の記事を、三人の学生が見て彼に声を掛ける。名門ボート部の中心選手で、「ファイナル・クラブ」でもっとも入会の難しい「ポーセリアン」に所属するエリート学生、ウィンクルボス兄弟とその友人、ディヴィヤだった。彼らは「harvard.eduドメイン」に群がる女性達をターゲットにした、学内の出会い系SNS「ハーバード・コネクション」を立ち上げるために、プログラマーを必要としていて、彼らはマークに白羽の矢を立てたのだ。マークは彼らに協力しつつ、「ファイナル・クラブ」に「フェイスマッシュ」、双子のアイデアをヒントに、「フェイスマッシュ」を一緒に作った友人・エドゥアルドと一緒に、SNS「ザ・フォイスブック」を立ち上げた。
 「ザ・フェイスブック」は、瞬く間にその学内で会員数を増やしていく。それらはやがて、ハーバード大学の枠を超え、やがて他大学へ、そして、アメリカ国外の大学にまで広がっていく。しかし、彼は、世界中を席巻するほどの成功と引き替えに待っていたのは、かつての盟友との断絶、そして訴訟に次ぐ訴訟の日々だった。


 さて。この映画のポイントは、劇中の「マーク・ザッカーバーグ」の人物造形にある
 言いたいことは躁気味の早口、なのに基本無表情で、趣味はプログラミングのモテないオタク。ハーバード大学の学生であることを鼻に掛け、ボストン大学学生であった恋人から袖にされる。再会してもブログで悪口書いたことを謝罪もせず、「俺、スゲーサイト立ち上げたんだぜ」と言い放ち、彼女から嫌みを言われる。アイデアを盗用したと訴えられても、共同創業者の親友に訴えられても、彼の表情は変わらない。しかし、内面ではぐるぐると感情がうごめいている。
 「ホンモノ」のマーク・ザッカーバーグはそのような人物であるか否か。実はよくわからない。


 映画を見終わって、ボクは怪物SNS「FACEBOOK」の創始者の真実の物語、としてではなく、真実を叩き台とした、「普遍的なゼロ年代の神話」として描こうとしたのではないか、という印象を強く持った。
 裏切り、高慢、見栄、嫉妬、羨望、復讐。マーク・ザッカーバーグの中にある様々な感情は、マークの無表情の仮面に押し隠されたまま、彼に振り回される/または振り回す周囲の人々によって可能性だけが描かれ、本当に「マーク」がどんな感情を持っているかは明かされない。ま、実在する「当代きっての成功者」の話だし、脚本書いたアーロン・ソーキンは当人に取材を申し入れて拒否されているようなので、どこまでが真実かなんてのを知るわけがない。だからこそ、この映画は彼の実人生や、実際の出来事を織り交ぜつつ、フィクションとして、一青年・マークくんの孤独を浮き彫りにしていく。

 
 映画冒頭数分で、この映画を理解する上で必要な「設定」は「圧縮」して「ファム・ファタール」エリカとの速射砲のような会話のなかで出し切って、なおかつ彼の外面から見た「人間性」をも端的に描ききってしまう、という荒技がまずお見事なのが、膨大な台詞劇であるにも関わらず、登場人物に対して一方的に感情移入させることなく、かといってむやみに突き放しもせず、この映画は適切な距離を保ちながら、登場人物の感情の揺れは、巧みな編集によって観客に示さされる。
 マークに「してやられ」たエリート双子の野望、挫折、そして憤慨、一緒に「フェイスブック」を立ち上げ、陰日向に貢献してきたにも関わらず、「ナップスター」の創始者・ショーン・パーカーとの出会いによって、徐々に居場所を喪っていく親友の焦燥、落胆、憤激。それらが、一人の男への、負の感情として爆発する。


 映画の終盤、がらんとした会議室でパソコンで仕事をする彼がぼつりと司法修習生にかける言葉。そして、彼女の返答。
 その後、映画の終わりに彼が見つめる先には、モニターに映る、あるページ。経済的な成功によって得たものと、それによって喪ったもの。それがそこに混在している。青年は、彼女を自分の創出した「世界」越しに見る権利だけを得る。
 現在進行形でアメリカン・ドリームの中心にいる若き成功者の半生を、「神なき世界の神」と「なってしまった」孤独な青年の、普遍的な物語として昇華させた傑作だと思う。 (★★★★★)