虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「テラビシアにかける橋」

toshi202008-01-26

原題:Bridge to Terabithia
監督:ガボア・クスポ
脚本:ジェフ・ストックウェル/デビッド・パターソン
製作:デビッド・パターソン
原作:キャサリン・パターソン


 学校では冴えないけれどかけっこと絵の才能には秀でている主人公は、女姉弟ばかりでかつ、貧乏な家庭にうんざり気味である。鬱積した気持ちをくすぶらせたまま、毎日灰色のような学校生活を続けていた。だが、一人の女の子との出会いが、彼を「新たなる世界」へと導く。彼女の名前はレスリー。となりに引っ越してきた、(ちょっとボーイッシュでかけっこも早いが、夢見がちな)転校生である。



 前評判が良くて見に行ったので、この映画の原作についてまったく予備知識なく見たのだけれど、鑑賞後に調べたらこれにはれっきとした原作があって、しかも国際アンデルセン賞も受けたことのあるベストセラー児童文学であるらしい。原作者・キャサリン・パターソンが、実際に息子に起きた悲劇を叩き台に、その悲しみを息子が乗り越えられるように描いた物語である。
 で、ちょこっと調べた上で、それなりにふむうと思うのは。これ、現代の話にしないほうが良かったのではないか、と思う。(時代背景をぼかしているが、劇中「ネットで検索した作文禁止」という台詞があるように、インターネットが普及している現代の設定。)


 この映画は普遍のイマジネーションを持つ映画ではあると思うのだが、それでもなお、この映画に漂う奇妙な「懐かしさ」の皮膚感覚は、奇妙なまでにリアルである。そこがこの映画がある種の違和感を覚えさせるところなのだが。



 自分が、どうしてこれは「ノスタルジー」の話だと思うのか。いくつか理由がある。
 まず。ヒロイン・レスリーたんが美少女すぎる。アナソフィア・ロブちゃん(「チャーリーとチョコレート工場」のヴァイオレット役のコ)は「チャリチョコ」からまた一段と美しさを増して、幼いキーラ・ナイトレイみたいな容姿になっていて、軽く身もだえちゃうほど可愛いのだけど。映画で彼女は「友達のできなくて、かつ妄想癖のある想像力の素晴らしさを知っている娘」だというが、そういう娘がここまで快活な美少女であるってのは、フツーに考えてあり得ないのではないか、という違和感が常にあった。
 そして。原作は未読なので知らないが、その物語の書かれた経緯について考えたとき、もうひとつこの映画を読み解く上で重要なのは、脚色・製作に関わっている人物を避けて通れない。気がする。優れて甘美なノスタルジーは時にファンタジーと同義であることは、多くの映画が示すところだ。その人物の人生の中で、この原作はとても重要な物語であるに違いないのである。


 その男の名は、デビッド・パターソン。原作者の息子さんその人である。


 この映画は、母親から受け取ったものを鮮やかに映画という形で、具現化している。この映画でのファンタジーは、俺が「千年女優」の感想で使った造語「共有幻想」であり、互いのイマジネーションが見事なまでのシンクロの末、共有できた新世界が「テラビシア」という名の「二人だけの王国」である。
 デヴィッド氏にとって、「テラビシア」は「ボク」の物語でもある。彼が母親から受け継いだ教えは、想像力は「現実」と地続きでなければならない、ということだ。その教えを、この映画も忠実に守っている。この映画は特殊効果を駆使してはいるが、おどろくほど慎ましやかに見えるのは、製作者である彼がこの映画を通して伝えたいのが、あくまでも「現実世界」で想像することの大切さ・素晴らしさだからである。
 彼にとって8歳の時、雷で夭折した親友の女の子の容姿はどうだったのかはわからない。ただ、彼の記憶の中にいる彼女は、おそらく相当な美少女に違いないのである。過去はたとえ悲劇であろうとも常に甘美なものだ。彼の中で「彼女」はキーラ・ナイトレイ級の容姿を持つ美少女でなくてはならなかった。だからこその夢見がちな快活美少女・レスリーたんに納得がいく。
 で、あるならば、この映画が、「過去」の「現実」と接続する物語であることを示した方が、物語る態度としてはずっと健全であるように思うのである。


 とはいえ、この映画は、母親から伝えられた「想像力を持つことの素晴らしさ」を映画の中でふくらませた「親子二代」での共同作業であり、親と子の「共有幻想」なのではないかと思う。そしてそれは、みごとなまでな完成度で、秀作と呼ぶにふさわしい形で結実したことに、天恵を感じるのである。この親子が生き続ける限り、テラビシアは、今も確かに存在し続けているのだ。(★★★★)