「スウィーニー・トッド/フリート街の悪魔の理髪師」
原題:Sweeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street
監督:ティム・バートン
脚本:ジョン・ローガン
前評判の割に、意外と評価が難しい映画だな。と思う。ちょっとしばらく評価保留にしてた。
まず、見ている間は「非情」に楽しい。そして完成度が高い。それはわかる。題材と作家の相性も、奇跡的と言えるほどの組み合わせと言える。個々の俳優が、難曲を吹き替えなしで歌いあげ、世界観の出来映えも個々の部分で言えば完璧とも言える映像化、に、見える。でもなぜだろう。心から賞賛する気には、ちょっとなれなかった。
原作となる戯曲は完成度が高いのだろう。それはわかるし、その映画化としても、とても完成度の高い映画だとは思う。その出来映えだけでも★4つは間違いない。ただここに気持ちよく「傑作!」と★をもうひとつ乗せることは、どうしてもためらわれた。なぜか。
問題は。都市伝説からの戯曲化の過程で切り捨てられたものが、おそらく一緒に盛られているのだと思う。
それは「一介の理髪師の悲劇」として料理されるために切り捨てられた「スプラッタホラー」の要素。この表現が映画化される課程で露わになったことが、この映画の評価を難しいものにしている。
本来「ホラー」として料理されるべきものが、戯曲となるにあたって、物語の構造としては「ホラー」ではなく、復讐者の「悲劇」にシフトしているわけですよ。それは戯曲という表現だからこそ「アリ」だったのではないか、と思う。スウィーニーが判事への復讐心が、あるきっかけが元でこじれてしまい、シリアルキラーという「怪物化」する過程も、歌で「乗り切って」共感させてしまっているのだろうけど、
しかし、映画化された際に「スプラッタ」な味付けを加えられたものを見ると、明らかに共感する幅は足りない。異様だ。だってリアルに血がどばどば出しながら、無辜の人々が次々殺されてはパイになっていくのだ。なんの理由もなく。しかし、ミュージカルとしては彼らの「主張」を朗々と歌い上げるわけだ。ひっかかっていたのは、ここだった。映画化される過程で、生み出された「画」の強さが、本来の「ホラー」な部分を思い切り色を強めてしまっているのだ。そうなると「悲劇」としての共感の幅は、かなり狭まることになる。
この物語を「悲劇」と捉えるには、あまりにもスウィーニーの非道さが全面に出てしまった。そうなると、原作に横溢していたであろうユーモアのニュアンスも霧散し、ただただシリアスに陰惨に暗い話になっていくことになる。ミュージカルであるにも関わらず、見終わった時の余韻は非情にドライでフラットで、感情を揺さぶられることはなかった。
俯瞰された悲劇ほど、心の乾くものはない。ミュージカルとしての完成度の高さにも関わらず、そのドライな後味に絶句しながら映画を見終えたことに驚いた。俺にはこの映画は大変よくできた映画だと思う反面、本来の「狙い」からするとまったく違う着地をした、哀しい映画にも見えたのです。(★★★★)