虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「アジャストメント」

toshi202011-06-05


原題:The Adjustment Bureau
監督・脚本:ジョージ・ノルフィ
原案:フィリップ・K・ディック


 日本には神無月という月がある。神のいない月。つまり、神様が一斉にいなくなる月である。なぜ彼らはいないのか。一節には彼らは自らの居場所を留守にして、一斉に出雲国に集まり、あることを決める。
 それは、縁結びである。カップリングですな。
 誰と誰をくっつけ、誰と誰を引き離すのか。そのことを、神様たちは一ヶ月かけて、決めるのである。日本では、すべてのカップルの行く末は、神無月によって決まっている。
 しかし、である。決めたのはいいが、それを実際実行するのはだれなのだろうか。日本では神様が決めたら、人間には関知できない「なにか」の配剤で決まってしまうもののようである。では、遠くアメリカではどうなのであろうか。



 マット・デイモン演じる主人公は家族の死をきっかけに、一介の不良から政治家へと転身した異色の下院議員である。彼は多くの人に慕われる人望があるらしく、上院議員選挙でも、かなり優勢にすすめていた。しかし、懇親会での不祥事によって、かれは選挙で敗北してしまった。敗北のスピーチを考えるために誰もいない男子トイレで、彼は運命的な出会いをする。それはダンサーになることを夢見る女性で、度胸試しのために他人の結婚式に潜入して追われていて、男子トイレに隠れていたのだった。
 彼女との出会いによって、スピーチは軽やかに進み、次の選挙戦への足がかりとなる支持をとりつける。彼はその女性との再会を夢見た。数日後、政治家から、社会人へと復帰した彼は、「ある男」のミスがきっかけで、ふたたびその女性と再会する。
 そして、その同じ日に、彼は知ることになる。彼の運命が、「ある者たち」によって作られていたということに。


 彼自身が自由意志で選び取ったはずの人生が、もしも作り上げられたものだったとしたら。その作り上げた者たちの「目的」はなんなのか。
 アドベンチャーゲーム恋愛シミュレーションゲームなどには、「ルート」という言葉があるけれど、枝分かれした無数の選択の中で、ぼくらは一つの「ルート」を「自らの人生」として認識している。この物語は「世界」をマット・デイモンに握らせるために人生を「調整」して、「彼ら」が望むルートの人生を歩ませている。


 もしも、その「せかいのはんぶんをてにいれるルート」の最大の障害となるのが、惚れた女性だったとしたら。



 というのが、ま、この映画の大まかな話である。マット・デイモンが「神」の望む人生(運命)を歩くならば、彼は世界の中心に立ち、世界を変えるだけの権力を手に入れることが出来る。しかし、もし、惚れた女と結ばれたら、彼はその世界を手に入れることは出来ない。
 神様がきめた「縁(カップリング)」は絶対。それ以外の「縁」は結ばれてはならない。そして「神様」は主人公が世界を手に入れることを望んでいる。しかし、マット・デイモンは、世界と天秤にかけたとしても、惚れた女へとひたすら向かっていき、決められたルートをひたすらに逸脱していく。だが、普通の代行者たる「ヒラ天使」よりさらにチカラのある「上級天使」と接触した主人公は、彼女を幸せに出来ない可能性を指摘され、一時彼女のことをあきらめる。


 「縁」を結ぶために「縁」を引き裂くのが、<神の代行者>たる「天使」たちのお仕事。
 だが、ひとり、その仕事に疑問を持つ「天使」が現れたことで、彼女への「未練」を抱えたマット・デイモンは彼のチカラを借りて、ヒロインの元へと向かっていく。


 SFというにはおおざっぱで、ファンタジーと言うにはリアリスティックな<すこしふしぎ>咄を、舞台をニューヨークに限定して代行者たちを人間らしく描き、そのシステムを逆用して運命を切り開くことで、「人は意志のチカラで社会(運命)を変えられるのだ」という寓話性の高い娯楽アクション映画として仕上げて見せた手際は、評価されるべき佳作。(★★★☆)