虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ノウイング」

toshi202009-07-11

原題:Knowing
監督:アレックス・プロヤス
脚本:アレックス・プロヤス/ライン・ダグラス・ピアーソン/ジュリエット・スノウドン/スタイルズ・ホワイト


 この映画は1959年の小学校で、自分たちの思う「未来」を「絵」にしてみよう、という授業をしている風景から始まる。一人の少女は授業の前、太陽をじっと見つめている。そして授業中、彼女は憑かれたかのように、数字の羅列を書き始める。
 そしてその授業で書かれた子供たちの「絵」とともに、彼女の「数字の羅列」もまたタイムカプセルに入れられる。そのタイムカプセルは、1959年から50年後。開かれることになる。


 それが、息子のケイレブを経由して、MITの宇宙学者、ジョンの手に渡ることになる。彼は、その数字の羅列が、過去50年の「事故」の予言であることを突き止める。


 この映画を見ていて、不思議だったのは、この映画の「世界」の定義である。


 この映画において、「何者か」によって、不可避な地球の運命が一人の少女に「通達」されたことから始まっている。彼女の遺したメモがたまたま、学者のジョンに渡ったことで、彼は「運命」を見届けることになる。
 世界が、終わる。この「世界」というものを「ディザスター・ムービー」という「自然の力と人間の力」を結ぶジャンルの論法で描こうとするわけだが、面白いのは、「彼女」の遺した「メモ」というのが、「アメリカ国内の事故」や「テロ」に限定されていたことである。


 つまり。この映画における「予言されたもの」は「アメリカ国外」はその範疇にない、ということ。この映画はグローバルな「世界の危機」を描いた映画ではなく、アメリカから見た「セカイの終焉」を描いた映画ということである。


 数字の羅列を見て、それを「予言」と解釈する、その起点になっているのは「2996091101」という数字。「犠牲者/月/日/年」と解釈すると、つながるのは「アメリ同時多発テロ」である。さらに、2年前、妻を亡くした「火事」との符号が彼の中で決め手となって、ジョンはその数字の羅列を予言だと見抜くわけなのだが。
 この映画において、このテロの遠因となる「戦争」の犠牲者などは顧みられることはない。


 ジョン氏はこの数字の羅列に「天啓」を感じて自分になにか出来るのではないか、と思い込み、彼は行動を起こすけなのだが、この数字の羅列が示す事態は一人の男が抱えるにはあまりにも大きすぎるものであった。


 この映画でひとつ重要なのは「我々がここにいるのは必然か否か」という問いである。なにかの偶然によって「我々はここにいるのか」それとも「運命によって定められていたのか」。
 宇宙学者としてのジョンは、「宇宙が生まれて我々がここにいるのは必然であり、運命である。」としていながら、同時に彼が「神父である父」を拒否し、「運命に抗うもの」として行動するのは、妻の火事による死を運命として受け入れていないからである。


 未来は変えられる。そう思って行動していたジョンは、やがて自分の無力さを突きつけられることになる。そして彼は、「父」の下へと帰る。


 人間には決して抗えぬ力、定められた運命がある。決して覆らない「神の配剤」があるのだ・・・とこの映画は結論づける。それがたとえ「地球の滅亡」だとしても。
 この映画における唯一の希望である、「宇宙の監視者」たちの「絶滅種の保護」という行為も、この映画ではかなり宗教性を帯びたラストへとつながっていく。他の星の「生命体」の行いもまた、「神の掌の上」。それは「9.11」以降の「アメリカ」の諦観の空気であり、彼らが見ている「セカイ」の風景なのかもしれない。(★★★)