虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「青い鳥」

toshi202009-07-17

監督:中西健二
脚本:飯田健三郎長谷川康夫
原作:重松清


 三軒茶屋で落ち穂拾い。


 「本気の言葉は、本気で聞かなきゃ、だめだ。」


 この映画をみていて、なんとなく思ったのは、この映画は「こうあるべき」という映画ではなくて、あくまでも「変人教師」の話であることがミソである、と思った。
 自殺未遂騒動の心労で休職を余儀なくされた先生の代理教師として赴任し、自殺未遂の生徒のクラスをまかされることになった「吃音(どもり)教師」の村内先生。彼がなぜ「代理教師」になったのかについて、この映画はあえて深く言及しないのだが、彼自身独自の信条による教育が現行の「教育システム」と必ずしもキレイにはまらないからではないか、と思ったりもした。
 だから、狂言回しであるところの園部君は、そういうシステムの中である種の閉塞感を抱えている。それは教師も生徒も同じことで、そこに「異分子」である村西先生が、「彼自身の信条」を貫くことで起きた波紋を描く、というかたちで描いたのが、この映画の巧いところであると思う。


 村内先生の起こしたアクションは、自殺未遂で転校を余儀なくされた生徒「野口くん」の席を元に戻し、毎朝その空席に向かって挨拶する、というもの。「去ったもの」を「存在するモノ」として扱う、村内先生の行為は、「野口」に対するなにもかもを忘れ去ろうとしていた生徒達に、動揺と戦慄を引き起こす。その「村内ショック」にもっとも過敏になったのは、野口君が書いた遺書に名指しされた3人のうちの一人とされ、教育委員会に呼び出された過去のある「井上くん」だった。


 この映画における野口くんへの「いじめ」というのは、当人達の「意識上」にのぼるものではなく、当人達が「悪いコト」と認識しないところで起きていたことだった。「井上くん」も「園部くん」も、コトが起こるまでは、なにも変わることのない平穏が続くモノと信じていたはずだ。だが、野口くんは、抱えていた心労を「自死」というかたちで、示そうとした。
 この映画がひとつ、大きな「欠落」があるとするなら、それは「野口くん」という肉体がないところで、進行していることだと思う。問題は「野口」くんのその後を、この映画は追わない。その上で「野口」のことをおもんばかれ、と生徒達に突きつけるこの映画が示すやり方自体は正しいとは思わないし、、教育がこうあるべきとも、私は思わない。


 しかし、教育上正しくない、だから間違ってるとも思わない。この映画は、「物語」であり、教育論ではなく、教育システムの限界と、そこからこぼれ落ちたものをどう救うか、という話である。「学校」という教育には所詮限界がある。そこからこぼれてしまう「言葉」がある。それゆえに「村内先生」という人は、システムからすこしずれたところにいる。学校というシステムの限界の中で、こぼれ落ちた人間の言葉に耳をすませ、必死に手をさしのべようとし、その言葉を静かに、そして重く、関係したクラスの生徒達の心にに伝えようとする。例え届かなかったとしても。
 そういう言葉を救うことが、村内先生という人間の、「贖罪」の旅路なのだろうし、そこに付き合わせている「エゴ」も、実はある。でも、そうでもしなければ、救えない声があるのも事実なのだろう。


 それは「吃音」であり、「変わり者」である代理派遣教師・村西先生にしかできない仕事なのかもしれない。(★★★★)