虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ハリー・ポッターと謎のプリンス」

toshi202009-07-25

原題:Harry Potter and the Half-Blood Prince
監督:デビッド・イェーツ
原作:J・K・ローリング
脚本:スティーブ・クローブ



 原作は未読。


 前作までのものよりも、かなり原作から脚色した部分が多いらしい、というのは鑑賞後に知ったのだが、それを知ってスタッフの映画への取り組みが本気だと伝わってきた。出来不出来はともかく、映画なりの面白さを模索する姿勢は至極まっとうだと思う。


 でまあ、その「脚色されたハナシ」の中から感じ取ったことを書いていこうと思うのだが。
 ひとつ。この映画を見始めて思い出したのは、第1作「賢者の石」だったりする。第3作「アズカバンの囚人」以降、あらゆる監督がそれぞれのカラーで「ハリー・ポッター」を彩ってきて、ハナシのテーマもかなりバラエティ豊かで楽しいシリーズだったのだが、ここにきて「願望充足」という第1作の原点回帰に戻ったのではないか、ということだった。
 第1作は「小学生高学年」にとっての、「平凡で不幸なボクが実は選ばれし者で、みんなからちやほやされて魔法の世界で大活やく!」みたいな感じだったのが、本作では思春期にとっての願望充足「モテ期突入」に入る。しかも、3人の中でいままでまったくモテから遠かったロンが本作では「リア充」への道まっしぐらである。「やればできるのにやれなかった子」ロンの本領発揮で、そのモテっぷりに動揺したハーマオニーが本作では、完全に「るーみっく」ヒロインと化して嫉妬しまくるという、にやにやな展開になっている。
 第1作からずっとハリーに片思いしていたという、原作ファン以外ほとんど忘れ去られていたロンの妹・ジーニーが、本作になってハリーと急接近する辺りも、より第1作を意識させる点だと思う。


 ところがどっこい。ボクはそういう「願望充足」的なハリーがあまり好きではなく、なんとなくぽーっと見てたのだけど。


 ただ、その中で、第1作と大きく違っていて、なおかつボクの目を引いたのは「ドラコ・マルフォイ」の凋落と、その暗躍である。
 彼は名門の息子で、才能という点でもハリーと遜色はなく、スリザリンで一目置かれ、プライドも人一倍高かったドラコが、徐々にハリーに差をつけられ、前作「不死鳥の騎士団」で父親が「死喰い人」であったことが発覚して、孤立する憂き目に遭い、かつていた彼の「取り巻き」たちも、彼から距離を取っている。その孤独に目をつけられてしまい、彼にヴォルデモートからの誘惑の手が伸びている。そして、彼をめぐって、セブルス・スネイプも独自の動きを見せはじめる。
 スネイプもまた、前作で「意外な過去」を持っていることが発覚した一人で、かつての彼と今のドラコの立場は、空回りに次ぐ空回りのための「孤立」という一点で重なる。


 そしてもうひとつ。ハリーが強力な魔法を使う「魅力」に取り付かれ始めること。
 彼が「偶然」手にした、「混血の王子」なる男が蔵書した魔法の本を熟読し、そこから人を死に至らしめるほどの攻撃魔法(呪い)や、そこに書かれた魔法薬知識を買われてダンブルドアから「スパイ」の役割を振られたり、「幸運すら引き寄せる薬」を手に入れてしまったりする。
 そして、「幸運を操る薬」によって、ハリーは「ある真相」にたどりつくのだが、その幸運はゆり戻されて、シリーズ屈指の悲劇につながっていく。それは確実に、ホグワーツに暗雲をもたらす。


 光だけが光り輝く行いをしているわけではなく、闇だけが闇にいきるのではない。光は闇に対抗するために「闇の力」を欲し、「闇」は「光」を求めてうごめき続ける。ここ最近のシリーズ作品に希薄だった「光と闇」の対比をかなり鮮烈にした本作が、同じく「善悪」が明快だった「賢者の石」から6年にして、シリーズが獲得した「屈折」を反映しているのは面白いことだな、と思ったりした。
 本作において重要な「謎のプリンス」こと「混血の王子」とは誰なのか。この人物こそ、最終第8作「死の秘宝」2部作までを貫く、重要な存在であることは違いなく、本作でも「終盤の悲劇」に大きく関わることになる。
 本作とほぼ連動する形で動いている(と思われる)完結編への布石も含めて楽しんだので、次作公開の来年秋を期待して待ちたいであります。(★★★★)