虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ベンジャミン・バトン/数奇な人生」

toshi202009-02-20

原題:The Curious Case of Benjamin Button
監督:デビッド・フィンチャー
製作:フランク・マーシャルキャスリーン・ケネディ、シーン・チャフィン
脚本:エリック・ロス
原作:F・スコット・フィッツジェラルド



 「若返っていくってどんな感じ?」「自分のことは、よく分からない。」



 1910年代後半。息子を戦争で失った時計師が望んだ、「時の流れの逆行」。その「逆行する時を」望んだ男の「呪い」を具現化した男が誕生する。それがベンジャミンである。1918年。ボタン工場の社長の一人息子として生を受けながら、80歳の老人と同じ肉体で生まれた彼は、老人介護施設に捨てられ、そこで育てられる。
 みずからを「老人」と認識し、残りわずかな命を生きると信じていた幼年期を過ごした彼は、少しずつ自分の体の変化を感じていく。それは、自分の肉体が「若返っている」ということ。


 大作である。そして、力作である。
 シネコンで上映開始時間ぎりぎりに駐車場に滑り込み、チケット購入時に駐車場サービス3時間無料のサービスを受け、上映終了後すぐに駐車場から出たのに、なぜか駐車料金を取られる、というくらいの大作である。しかも視覚効果は全編に渡り、かなり巧妙に使われていて、見ていて「うわあ・・・うわあ・・・」と延々思っちゃうくらいの力作である。
 にも関わらず、淡々とこの映画は流れていく。



 ベンジャミンは運命の子である。それは80年生きる、という運命。(そしてイケメンとして生きる運命)。
 この物語が始まった時。彼は、80年生きることを約束されている。彼の80年を語る上で欠かせない存在となるのが、彼の5歳年下で、彼と何度も運命を交差することになるデイジーである。


 デイジーが彼と大きく関わることになるのは、実は彼の後半生であり、前半生において、ベンジャミンとデイジーは交差しながらも、大きく関わることがない。でありながら、この映画にとって彼女と彼が、互いを重要に思うのは、人生の黄昏において必要な相手である、という認識で一致していたからのように思う。
 ベンジャミンがどういう風に人生をとらえていたのか、それを思うとき、彼の幼年期は重要である。つまり、彼は「老い、そして生と死」について向き合わざるを得ない「幼児体験」を得て、成長している。

 施設に入っては、この世界から去っていく老人たちを彼は見ながら成長する。彼の幼児体験の中に、それは鮮烈な記憶であり、幼年期の彼にとっての大切な人は常に老人であった。


 デイジーとベンジャミンが初めて出会った時に、ベンジャミンがなにがしかの運命を感じることがあったとすれば、ベンジャミンを見てデイジーが彼を見て一発で「少年」として認識した初めての相手、ということになるからだと思う。

 若いデイジーにとってベンジャミンがどういう存在であったかは、死の床にある「現代」の彼女の口から語られているのだけれど、それはつまり「思い出してみればこう思っていたのかも」という、多少「美しくねじ曲げられた」記憶の可能性が高い。


 一方ベンジャミンは、日記という記録によって、彼の思いは具体性がある。彼がデイジーを焦がれる理由は、「老年期」へと向かう自分を素直に受け入れてくれる女性だからではないか、と思う。彼と肉体関係や恋愛関係になった女性はいるが、彼はその関係は永く続かないことを、どこかで気づいているのではないか、と思う。

 つまり、ベンジャミンは自分の体を通して心のどこかで「老いと死」を見つめながら、生きている。彼は若返っていく自分を「特別な存在」とは思っていないように思う。でありながら、自分のような存在を受け入れられるのは、刹那的に付き合うような、そんな関係からは生まれ得ないことを知っているからこそ、デイジーを長く思い続けることができたのではないか。
 それは、デイジーと親密な関係になってからも、おそらく変わらなかったのではないか。だからこそ、彼女の元を去るときも、彼は確信を持って去っていく。


 デイジーにとっても、彼が真に必要になるのは、後半生に至ってからである。彼女は年を追うごとに、自分が年をとっていくことを恐れている。それに伴って、ベンジャミンの愛が消え去ってしまうことも含めて。しかし、若返っていくベンジャミンは、彼女を真摯に愛し続けてくれる。そのことで、彼女は素直に老いを受け入れる。ベンジャミンと彼女の最後の「逢瀬」は、迫り来る檻から彼女を解放した瞬間である。
 その心理は、韓流にはまるおばさまたちと同じ心理なのではないかと思うのである。老いという恐れ、そしてそこからの解放。それが例え、一瞬のものだったとしても、その救いこそ、彼女にとっては美しいものとして、永く記憶に留められるものだろうから。


 ま、それはともかく。これはきわめて「アメリカ」な映画だと思う。
 この映画は「80年」という時代を生きることを前提に作られている。ベンジャミン・バトンという存在は「現代アメリカ人」の希望の反映も多分に含まれているように思う。「9.11」以降、自分たちが必ずしも「安全圏内」にいるとは限らないことを痛感させられている。それでもなお、できうるならば。80年くらいは生きていたい、という希望の反映となっている気がする。
 いつ死ぬかもしれない私たちにとって、彼が必ずしも自分たちの「合わせ鏡」とは言えないと思うのは、そういう理由である。今日を生き抜くのだって、結構大変なんだぞこのヤロー!、と思っている人は世界中にいるわけで。そう思っている人々にとって、彼の生き方はやっぱり、どこかファンタジーめいてもいるのではないか、と思う。(★★★☆)