虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで」

toshi202009-02-17

題:Revolutionary Road
監督:サム・メンデス
原作:リチャード・イエーツ
脚本:ジャスティン・ヘイス


 「あなたって興味深い人」と彼女は言った。


 今そこにある平凡なもの(レボリューショナリー・ロード)から逃げ出したい、とある夫婦の物語。

 なんか、「ミスト並みのラスト」とか脅されたり、各所でやたら絶賛されていたりしたので、無駄にハードルが上がっていて、覚悟完了するまですっかり後回しにしていたのだけれど、見てみたら。普通。普通の話。これが絶賛されてしまうのって、要は端正なサム・メンデスの演出にやられてるだけでねーの?という気持ちが僕の中にある。


 えーとね、
 この映画とは逆にあまり視聴率も評判も良くないドラマで「ラブシャッフル」というドラマが放送中でして、ボクはその第1回を、インフルエンザで体がロクに動かない中、「流星の絆」の録画設定をそのままにしていたので見てしまったのですけれどね。まあ、内容はこの不況の中、高級マンションに住む男女数名が、カップルの相手を交換する、という要はスワッピングを「ラブ・シャッフル」という名前に変えて行うって話で。
 このドラマで一つ、興味を引いたのは、主人公格の「逆玉の輿」に乗りかけたら別れを切り出された青年(玉木宏)と、そのおっとりとしたお嬢様婚約者(貫地谷しほり)のカップルで。彼女と青年のなれそめはスキー場で、彼は一般庶民ながら手に出した趣味はあらかたマスターする才能を持っていて、彼女はそこに惹かれてた。つまり、彼の「ファン」だと。
 でも、青年が彼女と婚約した縁で、彼女の父親が経営する一流企業に就職した途端、彼を見ていて「なんか・・・違う」と思い始めて、婚約破棄を言い渡す。ここがこのドラマの、そもそもの発端だったりする。
 この辺がこのドラマで感心した数少ない点だったりするのだけれど。



 で、そのことをこの映画を見て、なんとなく思い出したのである。
 この映画で、ケイト・ウィンスレットが結婚したいと思っていた男は、「良き夫としてサラリーマンに収まる」以前の自由を求めて職を転々として彼女の知らない場所へどんどん向かっていた頃の彼であって、サラリーマンになった彼、もしくは家庭に収まってそれなりに満足な男ではなかった、ということでねーの?と見ていて思った。
 だからこそ、彼女は女優になる夢を追い続けて市民劇団で女優をして失敗したりしてるわけでしょ?彼と釣り合う女であるためにさ。


 でも、彼はそのことに対して否定的。彼女はなんでそんなことを言うのか分からずに、キレる。そもそもこのカップルの、彼にとっての「彼女」、彼女にとっての「彼」、という互いの「認識」のズレがこの映画の冒頭から描かれている。
 子供さえ妊娠しなければ、彼はもっと自由人であったはずだと彼女は信じ込んでいる。だからこそ、パリに移住して「私働く、あんた働かなくていいから」なんていう途方もない夢を語り出して彼をその気にさせたはいいけど、結局断念せざるを得ない事情にみまわれ大ショック、という展開になるんだけど。


 ぼかあ未婚ですけど、夫婦になる、ということに対して、夢も希望も一切持ってない人間なのであれだけど、もし家庭に収まったとしたなら、ディカプリオよりもさらに保守的な態度を取るはず。少なくとも、彼女の「パリ移住計画」の話に一切乗らない。もっと現実的な話、しようぜ、ってなると思う。そういう意味では、彼らはレアケースだと思うのである。
 ディカプリオの失敗は、サラリーマンの仕事に飽き飽きとして、彼女の話にその気になって一端OKを出したことだと思う。もっとあり得たかもしれない「自分探し」が出来ることを、魅力的な話と感じて。だから、彼が乗り気になった時、彼女は「本当の彼」が帰ってきたと思っている。だけど、やがて、夢想から徐々に覚めて、現実を見てみたとき、ディカプリオは「彼女の話」のあまりの突飛のなさに気づく。
 その時、ディカプリオは彼女の思う男ではなくなっている。そのことをケイト・ウィンスレットは後に思い知らされる。そしてそこには絶望しかない。


 この映画はなにからなにまで「間違って」始まっていることはものすごく自明な映画で、逆に言えば、その認識のズレを最後まで埋められなかったからこそ、あのラストは必然として存在する。
 夫婦になるべきではなかった二人が、夫婦になったがゆえの悲劇なのだと、この映画を見て思いました。そこに「俺たち/私たち」を重ねる必要はない気がするのです。(★★★)