「風立ちぬ」
原作・脚本・監督:宮崎駿
以前。まだこの作品の製作が発表されていない頃。あるイベントで鈴木敏夫プロデューサーがぽろっと本作についてコメントしたことがある。その時、鈴木敏夫はこう表現した。
今度の宮崎駿の新作は「自伝」の映画であると。
宮崎駿監督の新作は自伝!鈴木敏夫プロデューサーがイベントで明かす - シネマトゥデイ
しかしふたを開けてみると、それは堀越二郎という飛行機設計者の人生を描く映画であった。
原作は「紅の豚」の元となる話も収録された「雑想ノート」を連載していたこともある「モデル・グラフィックス」での連載「風立ちぬ 妄想カムバック」という絵物語である。
宮崎駿との高畑勲との明確な違いがあるのは、堀越二郎の人生を書くことに対して「正確」を期さないことである。高畑勲が「堀越二郎」の生涯を描くならば、その人の人生をかなり綿密に取材し、正確な「堀越二郎」の評伝映画を作るに違いない。しかし、宮崎駿の描く堀越二郎の人生、その多くがフィクションである。このお話は彼がたどった人生をたたき台にしながら、その実、ここで描かれていることがすべて実際にあったことではなく、妄想を巧みに入り交じらせ、宮崎駿が「幻視」した「堀越二郎」の生涯なのである。そのアプローチは実は、宮崎駿の、原作付きファンタジーを作るときとなんら変わらない。実在の人物の人生であろうとも、「史実」という「原作」通りになんて宮崎駿はつくらない。全部壊して、「原作」をかみ砕き自分の脳内を通して「再創造」するのである。
宮崎駿によって「再創造」された堀越二郎の人生を、我々観客はたどることになる。
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私は以前に何度か、そんな宮崎駿の「世界」を「再創造」するアプローチをもって「宮崎駿はワールドテラーである」と書いた。ストーリーを通して映画を語るのではない。世界を通して映画を語る監督である。
本作で本当に瞠目するのは、この映画において「いつ」「どこで」「だれが」「何をしている」かを描くとき「いつ」であるかを、文字で明確にはしていないことである。
この映画の「時代」や、彼が見るイタリアの設計士カプローニと邂逅する「夢」であることを、虚実さだからならぬ、うごめく世界の「変容」によって示すという、宮崎駿にしかできない大胆なことを、当たり前のように行っている。テロップに「大正●年」だの「昭和●年」などと示すことをこの映画はしない。彼は二郎の周りの「人」、汽車やバス、船などの「交通機関」そして「世界」のうごめきの違いによって、「時代」を「体感」するのである。この体験は驚くほど変化に富み、そして濃密で贅沢な時間である。
堀越二郎は飛行機設計の分野では様々な革命をもたらした「天才」である。紙の上で「線」を引くだけで、彼の中で明確な「飛行機の像」がありありと動きだし、それが「墜落するかしないか」まで「幻視」できてしまう。そして、「目が悪くて飛行士にはなれなかった」代わりに「飛行機の設計」を繰り返すことで、彼は「幻」の中で何度も飛んでいる。(そして時に墜ちる)
紙の中でこそ、彼はあらゆる「美しき飛行機の夢」を見ることができる。しかし、時代は、「うごめく世界」という魔物は、彼に「戦闘機」を作ることを要求する。そして、彼は時代の流れ、いやさ「世界」の流れの中で否応なく「美しい飛行機の悪夢」の中へと引きずり込まれていく。
そんな彼が美少女と出会い熱烈な恋に落ちる。一目あったその日から恋の花咲くこともあるというが、宮崎駿は一目惚れだけが、すべての恋の始まりだと言わんばかりに、関東大震災の中で偶然出会い、別れながらも、その気持ちをずっと持ち続け、数年後の軽井沢で二郎と再会を果たす「菜穂子」との恋である。
その熱情は再会してから数日の後には一気に燃え広がり、互いに迷わず「婚約」をする運びとなる。しかし、菜穂子は「結核」を患っていることを、二郎に告白する。それでも二郎は菜穂子との恋も、「美しい飛行機の夢」もあきらめることなく走り続けていく。
堀越二郎は飛行機設計者として机の上に向かっているうちは、「天才」でやがて神話化されていくゼロ戦を生み出すに至る「神」にも似た存在だが、だからと言って悲劇へと向かう社会に対しても。二郎は宮崎駿作品の主人公の中では、もっとも「世界」に対して「無力」な主人公である。
そんな主人公の声に「庵野秀明」を使うのは「なるほどな」と思ったりする。机の上に向かえば天才。だが、現実世界の彼は常にしんどい生き方を選ぶ。堀越二郎という存在に「はつらつとした力強さ」はいらない。
かれはどこまでも「世界」と対峙する存在たり得ない。
そんな彼を主人公にした映画を「宮崎駿作品」たらしめる存在が、薄幸の少女「菜穂子」なのである。 彼女は自らが「結核」であるという事実を受け止めながら、限られた時を二郎とともに過ごそうとする。そして、彼女はサナトリウムのベッドに横たわりながら「ある決断」を下す。
その決断こそが、彼女を「宮崎ヒロイン」たらしめている。
昔、鈴木敏夫が披露した逸話だった気がするけれど、宮崎駿が誰かに「(「カリオストロの城」の)クラリスみたいな女性なんて存在しませんよ」と言われた時に、「当たり前だ。」と返したと言われる。ルパンと過ごした「たった数日」、彼女はルパンの前で「あのような女性」であっただけで、もしルパンが彼女と生きることを選んでいたら、まったく違う顔を見せるはずだという。それが宮崎駿の「女性観」であり、「ヒロイン観」だと僕は思う。
ほんの限られた時間。ならばこそ、彼女は「二郎の中でいつまでも美しく存在しうる」。だからこそ、彼女は「宮崎ヒロイン」としてスクリーンに力強く存在し、消えていく。
堀越二郎は彼女を救うことは出来ず、ゼロ戦という「夢」を生み出しながらも。世界が「地獄」と化していくこともとめられない。けれど、それは「宮崎駿」が机にかじりつきながら、常に感じてきたことではないか。「机の上では夢の創造者」だけれども。しかし、世界に対しても、ニンゲンの死に対しても、自分はどこまでも無力だと。
鈴木敏夫がかつて、なぜこの映画を「自伝」と言ったのか。
それは二郎が映画の最後に見る風景とその決意が、そのまま、今現在の宮崎駿のそれと重なるからではないのか。この映画は、堀越二郎の人生を描きながらも、宮崎駿作品の中で、もっとも「個人的」な映画になったのだと思う。(★★★★★)