虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「マッドマックス/怒りのデス・ロード」

toshi202015-06-25

原題:Mad Max: Fury Road
監督 ジョージ・ミラー
脚本 ジョージ・ミラー/ブレンダン・マッカーシー/ニコ・ラサウリス



 ごくごく呑気な事を言えば、僕は「マッド・マックス」シリーズを見た事が無い。

 30年ぶりの新作とは聞いていた。予告編を見て「・・・・お」とちょっと心ざわつかされた事は事実であり、結果としては、「よし、見てみるか」と前売り券を買ってはいたのだ。だが、私はごくごく呑気に構えていた。


 とりあえず見ろというブログエントリが公開と同時にあがり、Twitterでも公開と同時に反響がすごい。ああ、これは見なければいけない。でも混んでそうだから先にとりあえず「グローリー/明日への行進」を・・・と思って見たら、「グローリー」がまた私の心を掴んで離さず、ちょっとその日はそれだけで胸一杯になってしまって、帰ってしまった。


 後日、改めてIMAXで見たのである。初めての「マッドマックス」シリーズ鑑賞である。ほぼ何の前情報を見ずに見たのである。


 核戦争後、荒廃した世界。資源は枯渇し、水は貴重になり、人類の寿命は半分になった。
 キャラクターはそれぞれに生き方があり、生きる目的があり、趣味趣向もまるで違う。だがそれぞれに世界の構造は単純で明快。支配する者がいて支配されるものがいる。絶対に動かない。だが、そこに抗うものが現れる。その方法はたった一つ。「逃げ切る」こと。


 この単純にも見える追いかけっこのなかに主人公マックスは、「ウォーボーイズ」の血液袋としてほぼ無理矢理巻き込まれるのだが、彼もまた世界のひとつのうごめきに過ぎない。彼は彼で勝手に生き残るために手前勝手に動いている。このストーリーから離脱しようと試みる。だが、結果としては離脱することかなわず、まるで関係の無いはずの追いかけっこに参戦することになる。 

 で。本作で初めてマッドマックスに触れて僕はどう思ったか。


 基本的に言えば、お気に入りのキャラとかはそんなにいない。あえて言えば火を噴くギターをただ弾きつづける人である。でも彼は物語にあんまり関係ないのよね。言ってみれば、権力者のイモータンジョーのにぎやかしみたいな存在なわけである。言ってみれば傾奇者である。


 でね。
 この映画を見ていて「頭が悪い」とこの映画を形容する人がいる。でも僕はそうは思わなかったんだな。予想を遙かに超えて、この映画は「ちゃんとしてる」と思った。


 ジョージ・ミラーという監督の事を僕はほぼ知らずに来た。その不明は恥じた上で思うのは、この人の世界に対する認識ってものすごくドライでそして凶暴なそれなんだよね。言ってみれば世界というのはどこまでも残酷であるということなのだと思う。そしてこの映画の世界はまさに、現代の世界を更に非情さを増した形で存在させている。そして一番の人類の敵はその「世界」そのものなのよね。だが、それは厳然として人の手ではいかんともしがたいし安易な救済は訪れない、という所をきっちり押さえている。
 その中で人と言うものはどうなっていくのか。それをかなり戯画的に描いてはいるのだけれど、思うのはこのような世界ではもはや、人は「狂気」と「罪」を背負うことなしには生きていけないという事だと思う。この映画の「狂言回し」こそ「マックス」というシリーズを通しての主人公ではあるけれど、この「怒りのデス・ロード」の主人公は「フュリオサ」という女戦士で、彼女もまた生き残るためにはあらゆる「罪」を犯してきた人なのだとは思う。民は水も食料も医療も食物すらない世界の中で飢えきっていて、弱り切っているわけで、だからその絶対君主的にイモータン・ジョーが振る舞う社会が許されている。そこで生き残る事はどういう事か。彼の手先であり続けなければならなかったということである。彼女もまた清廉な存在ではあり得ない。



 僕はね。この世界の人たちに対して簡単に「共感」することは出来なかったんですよね。この現代に生きる人間とは明らかに違う理に生きていて、その中で、善悪の価値そのものが完全に今とは違う世界。何が正しくて何が正しくないのか。その根本すら違う。そういう世界に生きる人間達の「うごめき」こそがこの映画の肝なのだと僕は感じたのだ。ゆえに、自分などという存在からすれば、安易に共感するような事は出来なかった。
 その中に一筋の希望がフュリオサの脳裏に鮮明にあり、それを元に彼女は「イモータン・ジョーに囲われた女性たち」を連れて叛逆の旅に出る。それがこの映画が描く「一筋の希望に導かれた女達」から始まる、「狂いつつ短い生を爆発させる」狂騒。


 世界から見放された人々がどのように生きるのか。どのように変貌するのか。この映画には多分「悪人」はいないのだ。ただ、この世界に放り出された人類が、果たして「狂気」なくしては生きていけない。ゆえにもはや、この映画の人間観は「善や悪」の境界をあっさりと越えている。それはもはや、残酷な世界ゆえに起こることなのだ。


 その世界をスクリーンの外側から眺める僕たちは所詮「セーフティー」な場所でこの狂騒を見ているだけなのである。


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 安全であることの愉悦。この映画は無意識かそうでないかはともかく、観客がそれを感じながらもその上で彼らの生の爆発を心から楽しむ事が出来る残酷な娯楽映画でもある。


 以前僕は宮崎駿を「世界で語る者」という意味で、「ストーリー・テラー」ではなく、「ワールド・テラー」であると書いた。ジョージ・ミラーという監督もまた、そういう領域で映画を作っている。人にはとても太刀打ちできぬ、厳然たるうごめきの中にある「世界」を容赦なく描く事が出来る数少ない天才だと思った。この映画は一応、それなりにハッピーエンドとも言えるような「希望」のあるラストになっている。だが、僕はこの映画のラストを見ても、とても「めでたしめでたし」とは思えなかった。どのような希望があろうとも、この世界は続いてく。世界は変わらず残酷であり続ける。「安易な救済」は訪れない。
 僕たちは劇場を出れば、それなりにセーフティな現在の世界が待っている。しかし、登場人物達はその世界の中で生き続けなければならない。あの世界は終わらない。その事がなによりも暗くそして残酷なのだと思ってしまうのである。その事が僕の心がずっと離れなかった。最後まで馬鹿馬鹿しく、騒々しく、そしてわかりやすく突っ走る娯楽映画でありながら、ふとそんなことを考えさせてしまう。すごい映画だと思う。(★★★★★)



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