虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「グローリー/明日への行進」

toshi202015-06-20

原題:Selma
監督:エバ・デュバーネイ
脚本:ポール・ウェッブ


 冒頭、ある男がネクタイを締めながら演説を練習するシーンからこの映画は始まる。


 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア。日本では「キング牧師」の方が通りがいいか。非暴力で黒人への人種差別是正に貢献しながら、暗殺によって39歳にして散った偉人。多くの人に名前だけは知られながら、その偉大すぎる功績と非業の死によって「聖人」としての「偶像化」が進んでしまった人でもある。それゆえに、日本ではおそらく、キング牧師って何した人?と聴かれると「え?え?え?とにかく黒人差別なくしたえらいひと?」となるのが率直なところではないだろうか。
 かく言う僕も、記号化された彼の名前や功績をうろ覚えで知ってはいても、彼自身の人となりや内面に興味を持ったことはこれまでなかった。偉大なる指導者、ガンジーと肩を並べる非暴力の英雄。この映画はその人についての映画である。


 えー?説教くさそう。なんかよくわかんない人の偉人伝でしょ?なんか退屈な映画なんじゃないの。
 ・・・・と思うかも知れないが、ところが決してそうではない。


 黒人の差別には長い歴史がある。さらには39年というキング牧師の短くそして太い人生にも映画には長い年月だ。この映画は人種差別の長い歴史や、39年という一人の偉大な男の人生のダイジェストにする方向性をばっさりと捨てる。この物語はある一時期のキング牧師の戦いに限定して描いている。
 1965年にアラバマ州で起きた「血の日曜日事件」と呼ばれる暴力事件から、やがてキング牧師が行った公民権運動、最大の成果「セルマ行進」へと至る、決して覆せないと思っていた社会システムに戦いを挑む人々を巡る人間ドラマである。


 冒頭のキング牧師がネクタイを締めながら練習している演説は、ノーベル平和賞受賞式に向けてのものである。彼にとっては輝かしい場面のはずだ。ところがその直後起こるのは、4人の黒人少女が爆破テロに巻き込まれて犠牲になる場面である。そして一人の黒人女性が、有権者登録に行くも、白人の役人に難癖をつけられて、追い返される場面が続く。
 彼の「ノーベル平和賞」受賞は、彼が実践し広めてきた「非暴力抵抗運動」、それのひとつのクライマックスである「ワシントン大行進」の時の偉大な演説I HAVE A DREAM、そしてケネディ大統領やジョンソン大統領への働きかけによって実現した、公民権法」制定への大きな尽力の功績によってである。


 だが、彼が「公民権運動」に一定の成果をもたらし、「ノーベル平和賞」を戴いてもなお、人種差別の現実はアメリカの黒人社会に暗い影を落としていた。キング牧師の家にはナゾの脅迫電話がかかり続け、夫人の心をすり減らせていたし、KKKによる黒人殺害事件は後を絶たない。せっかく公民権法が成立しても、黒人差別が色濃い地方では、黒人を投票させない妨害行為が州ぐるみで行われていたのである。


 そして映画の舞台は原題でもあるアラバマ州にある地方都市「セルマ」へと移る。



 公民権運動に理解を示し、公民権法成立に尽力してきたリンドン・ジョンソン大統領(トム・ウィルキンソン)に会見したキング牧師は、南部などで行われてる有権者登録に対する妨害行動などで、黒人に選挙権が得られない現実に対し、黒人に選挙権を保証する法律制定を直談判するも、ジョンソン大統領は「時機が早い。待て。」と消極的な姿勢しか示さない。
 ジョンソン大統領はもともと南部の出身でありながら、人種差別を撤廃するために動いてきた、偉大な人である。ケネディ大統領政権下では副大統領を務め、キング牧師の働きかけに同調してきた。それでも、彼の支持基盤は、あくまでも南部なのである。彼には、これ以上支持者である白人を刺激する事は政治家として避けるべき事態でもあった。
 キング牧師は大統領の態度を見て、落胆する間もなく、アラバマ州セルマを新たな決戦の地にすべく下見に出かける。そこは白人による黒人への有権者登録が制限されており、有権者登録できた黒人はわずか2%しかいなかった。そして4人の少女が犠牲になった教会爆破事件の起こった場所でもある。


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 だが、彼の行動はFBIによって監視されていた。世界に知られた「人種差別を非暴力によって撤廃した英雄」も、米国という差別社会に帰れば黒人としての扱いを受ける。ましてや、彼は白人優位社会にとって最も脅威となる男だからである。そして、その指揮を執っていたのが誰あろう、悪名高きジョナサン・エドガー・フーヴァーである。



 キング牧師は鋼鉄の意志の固まりかと言えばそうではない。聖職者と言っても彼はなにせ30代のひとりの普通の男である。葛藤も、猜疑心も、恐れもある。妻が公人としてキング牧師とはタイプが違うイケメンカリスマ、マルコムXに逢えば、嫉妬からうっかり「ヤツに惚れたか?」とか聴いちゃうし、女性関係に関しても、決して「清廉潔白」とは言えない人物であったらしい。彼に絶大なるカリスマ性があると言っても、彼の元に集まる支持者が一枚岩かと言えばそうでもない。
 セルマにキング牧師が直々にやってきて、新たな運動を始めることに、公民権運動で大きな役割を果たしてきた学生非暴力調整委員会でも、賛否が激しくぶつかり合う。キング牧師の前途は多難である。



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 最初にアラバマ州で行った事は「投票権獲得運動」である。アラバマ州で行われてる妨害行為を是正し、黒人に当たり前の選挙権を持たせる為の行動。無論、彼の戦術は「徹底した非暴力」である。
 だが、敵もさるもの、一人の老人がヒザが悪くて座れない行動に難癖をつけ、暴力を振るい、一人の黒人青年がその白人に反撃してしまったのである。つまり、白人の術中にはまってしまった。この暴行をきっかけに、キング牧師と運動員たちは逮捕されてしまう。
 人種差別を隠そうともせずに公衆の前で演説する*1アラバマ州知事・ジョージ・ウォレス(ティム・ロス)は、黒人のデモに対して徹底した妨害工作を行う。2月8日、公民権デモ中の黒人達に警官隊が襲いかかり、母と祖父を守ろうとしたジミー・リー・ジャクソン青年は、レストランで警官に射殺されてしまう。
 キング牧師は彼の死にいたく傷つきながらも、彼はそれを運動の推進力として、言い方は悪いが演説する際にそれを「利用」する。彼は聖人である前に、「理想」を「現実」にするために動く「政治家/運動家」でもあるからだ。暴力という手法を放棄した時点で、かれは暴力への犠牲を、政治の力に変えることは、当然の帰結であった。
 キング牧師の戦いは、言わば暴力への「犠牲」が出る事は覚悟の上で、それでも「不服従」を貫くという手法ゆえでもある。彼の非暴力の戦いは、時に「臆病」「卑怯」のそしりを受けることもあった。しかし、これこそが、黒人公民権運動の「唯一残された道」でしかなかったのであり、キング牧師はそれを誰よりも知悉していた。
 ジミー・リー・ジャクソンの死は、セルマからアラバマ州モンゴメリまでの行進デモ行動へと発展する。


 彼の「非暴力」へのこだわりは、この行進デモにおいても顕著である。
 彼はこの行進デモがどういう結果になるか、わかっていたのでは無いか、と僕は思う。劇中では脅迫電話と、キング牧師の情事中のテープが電話口で流されたテープを夫人がキング牧師に聴かせる場面があり、その結果、家族の為にセルマへの行進デモ初日に、先頭に立つことを見送るという展開になる。
 その結果起きたのが、「血の日曜日事件」という惨劇である。非武装非暴力の黒人集団がセルマからエドモンド・ペタス橋で警官隊が待ち受けており、そこに武装した警官達が無抵抗の黒人達に一斉に襲いかかり、ムチや棍棒を黒人に向かって振り下ろす。そこには新聞社やテレビ局がそのデモ行動を取材にきており、その暴力事件はテレビ・新聞を通じて全米中の知るところとなるのである。
 キング牧師はテレビ・新聞を通じて、人種を問わず、セルマに人々が結集することを訴えかける。その結果セルマには多くの心ある白人たちがこのデモ行動に参加することになる。


 キング牧師は彼自身の「カリスマ」を良く理解している。故に彼自身の死がどういう影響をもたらすことまで考えを巡らせる。彼はことあるごとに言う。我々に必要なのは戦略であると。
 火曜日。今度はキング牧師が先頭になってセルマ行進を開始する。そして差し掛かる、惨劇の記憶生々しいエドモンド・ペタス橋へと差し掛かる。同じように待ち受けていた警官隊は道の端へと散開し道を空ける。デモ隊からは拍手。キング牧師はひざまずいて神に祈りを捧げ、後に続く人々も同調する。
 その後、祈りをやめて立ち上がったキング牧師がとった行動は意外なものだった。その場でセルマへ引き返したのである。
 その行動にデモ参加者からは落胆と非難が起こる。だが、キング牧師が恐れていたのは、道の端に分かれた警官隊がデモを挟撃して更なる犠牲が出ることであった。なによりも、キング牧師がその場にいたら。下手したら命を落とす。そうなればどうなるか。暴力には暴力という、キング牧師が誰よりも望まない負の連鎖が起こる。
 キング牧師が誰よりも恐れたのは「非暴力」以外の解決法を黒人が採ることであった。
 セルマにおけるキング牧師の拳なき戦争は、彼の非暴力による公民権運動の、言わば最終局面である。絶対に負けられない戦いなのである。



 暴力という力はわかりやすく、即効性がある。相手の尊厳を奪い、そして自らの意思の下に相手を屈服させることが出来る。なにより、暴力を振るう方には解放という快感がある。
 しかし。暴力の結果起こるのは屈服させられ尊厳を奪われた側による、決して消えない復讐の心である。暴力という解決法は、常に更なる暴力の火種として人々の心に残るのである。長く尊厳を奪われて、白人の嘘に屈服させられてきた黒人達が、自らの尊厳と意思による社会変革を得るために行ってきた戦いは、様々な紆余曲折をへて、このセルマでの拳なき決戦へと至っている。
 非暴力による不服従の抵抗運動は、キング牧師に同調した一人の白人牧師の死と、司法による「血の日曜日事件」を鑑みたデモの政党制の認可を経て、ジョンソン大統領に投票権法の成立を決断させる。


 この戦いを経てキング牧師たちが得たもの。それはまさに多くの黒人達の人生、アメリカの社会のあり方そのものを変える道である。


 このキング牧師と彼を支える多くの民衆達は、それぞれの人生、思惑がありつつも結集し、戦った物語は、決して「黒人」だけの物語ではない。この世に生きるすべての人類が、多かれ少なかれ、同じような局面に立たされることがある。その時に、我々は何を持って戦うのか。それが問われている気がする。


 民主主義も時に暴走することがある。その暴走を、憲法が止める。民主主義の国であろうとも政策判断を誤る事があるし、人種差別は起こるし、国ぐるみでそれに長く荷担してしまうこともある。その暴走を止めるのは、憲法と、長きに渡る「知見」、そして心ある民衆の力である。今まさに、日本こそがそういう局面にきているのではないか、という思いを強くする。
 普通の牧師としての生活を望み、家族と一緒に長寿を願い、死を恐れた男は、人間としての当然の権利を手に入れるために短い生涯を駆け抜けた。社会は、世界は、民衆の力で変えることが出来る。身をもって示したキング牧師の、「憲法」に書かれた「当たり前」を手にするための茨の道の戦いは、決して我々日本人とは無縁ではないはずである。その魂は時を越えて、僕の心を振るわせる。


 今、見るべき映画である。


 もう一度言う。今、見るべき映画である。傑作。大好き。(★★★★★)


余談


 劇中では人種差別主義ラスボス的存在として描かれ、キング牧師と和解することもなかったジョージ・ウォレス知事であるが、後に銃撃されて下半身不随になったのだが、黒人に手をさしのべてもらったこと、信仰に目覚めたことから、彼は人種差説発言してきた過去を悔い、全面謝罪している。人は変わることが出来るのである。

*1:その方が実際ウケがいいからなんだろうけど