虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「それでも夜は明ける」

toshi202014-03-16

原題:12 Years a Slave
監督:スティーヴ・マックイーン
脚本:ジョン・リドリー
原作:ソロモン・ノーサップ


 地獄。というものがこの世にあるのならば。それはどこにあるのだろうか。
 それは多分、「この世」の中にもまた存在しているのではないか、と思う。


 原題は「奴隷として12年」。1841年、自由市民だった黒人であるソロモン・ノーサップさん(キウェテル・イジョフォー)というヴァイオリニストが、バイオリンの興業主として紹介された2人の白人に欺されて奴隷として売り飛ばされ、12年間を過ごす話である。
 黒人でありながら、市民として生きてきたソロモン氏が、人間という「商品」として売られることの過酷さを体験する。人間を商品として売ることを容認してきた社会で普通に市民として生きることを謳歌してきた人が、同じ血の通った人間たちが、暴力とともに、知性を否定され、自由を否定され、永遠とも思える隷属を強いられている。


 この映画で、ひとつすごく興味をひいたのは、奴隷を買った白人達も、奴隷として買われた黒人達も、ひとつ大きな共通点があることである。それは信仰心が非常に篤いことである。


 商品主たちは定期的に、奴隷達の前で必ず聖書を読み上げる。これが奴隷達が奴隷であることを認めざるを得ない根拠にされている。
 キリスト教は原罪を抱えて地上に落とされた人間たちを救う宗教である。そもそも人間は「罪」を抱えており、そして今ある境遇もまた、自分たちの罪の軽重によって定められた運命である。自殺はしてはならない。殺してもならない。
 これらが組み合わさったとき、奴隷制という悪弊は「宗教」という潤滑油を得て、非常に円滑に回っていることに気づかされる。


 白人達に非常に宗教を有効活用することによって、この圧倒的かつ明確な差別構造に疑問を持たせないように常に宗教に重きを置いていることがわかる。だから知性を持ってもらっては困る。反抗心を持ってもらっては困る。ソロモン氏は奴隷として生きるために、永遠に終わらぬように感じられる時間、その「知性」を封印したまま生き、そして魂の中に深い刻印を残してしまう。


 12年という人生を無駄にしてしまって得た代償は、奴隷社会という社会を市民として容認して生きてしまった長き年月、そして共に過ごした煉獄の中に生きる人々への「壮絶なる後悔」と「申し訳なさ」である。
 俺は、市民としての人生を取り戻した。だけど。


 商品主の白人に気に入られたばかりに、その夫人に目をつけられて虐待され、やがて鞭うちの目に遭うパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)の懇願を彼は忘れない。

 あなたの手で、私を死なせてくれ。そう、彼女は言った。
 しかし、彼は「宗教」を理由に彼は拒否してしまう。この場面は彼の中にも「奴隷」であることを魂に刻印され、心の奥底で受け入れ始めていることである。あの時死なせてあげていれば・・・。どうだったのだろう。救われたのだろうか。わからない。
 しかし、彼女は死を賜るその日まで、人間として「死んだ」まま生きねばならぬ。彼はその後の人生を「奴隷解放」の為に尽くすことになることが最後に告げられる。



 さて。「風雲児たち幕末編」22巻にこういう場面がある。


 咸臨丸一行が遠くに見た船。それは、阿片戦争で負け、他国に蹂躙された中国人たちが、奴隷商人たちに買われて売られていくことを教えられている場面である。日本にも「人買い」という制度があったし、この映画の話もまた、一歩間違えれば、日本人も無縁ではない話だったのである。

 どの民族であろうとどの国家であろうとも。奴隷という非人道的制度を容認する社会を決して許してはならない。この映画は、そんな「奴隷制」という暗部を、1人の市民がうっかり長い歳月、その世界に迷い込み奴隷として生きる、という物語構造の中で、その「宗教」と「国家」によって社会に根付いた完成された煉獄を描ききることで、強いメッセージを打ち出しているのである。
 いつか明けねばならぬ夜の話である。(★★★★★)


地獄の沙汰も君次第

地獄の沙汰も君次第