虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ハンガー・ゲーム」

toshi202012-10-21

監督 ゲイリー・ロス
脚本 ビリー・レイ/スーザン・コリンズ/ゲイリー・ロス
原作 スーザン・コリンズ


「 焼かれながらも…… 人は… そこに希望があればついてくる……!」福本伸行「アカギ」より)


 時は遠いミライ。北米大陸に出現した国家のお話。
 70数回も開かれているらしい、サバイバル・リアリティーショー「ハンガー・ゲーム」。
 もともとは反乱した勢力への見せしめにするために、1年に1回、12歳から18歳の少年たちが12ある下層地区から男女1人ずつ、計24名で行われる殺し合い、1人生き残った者が勝者として大金を手に入れる。「儀式」に近いものであったが、やがてそれは富裕層の市民に「娯楽」として提供されている。ノーリスクで若き者たちの『殺し合い』を見ることに熱狂する一握りの市民(富裕層)。それに参加させられるリスクの中で「選ばれし者たち」の動向を見つめる大多数の奴隷(下層階級)。ローマのコロッセオの時代が蘇ったかのような、前時代的な社会が出来上がりつつある。
 75回目の「ハンガー・ゲーム」抽選の日。地区の代表に妹が選ばれてしまったことから、主人公・カットニスは、「ハンガー・ゲーム」に妹の身代わりの志願者として名乗り出、プレイヤーとして参加することになる。


 いやまあ、退屈はしない程度には楽しかった。のだが。
 ぼんやりと見ていて、ああ「バトロワ」とは違う映画なのだな、ということはすぐにわかった。年に1回、70数回を数える「歴史」あるビッグイベントということで、個人的には「ああ、そういう設定なのか」といったんは納得はしたものの、しばらくしてちょっと首をひねってしまった。すでに国民の「支持」を取り付けることで物事が有利に進む。すでにシステムは構築されていて、コロッセオ内ではゲームメーカーと呼ばれる演出家がいて、さまざまな「ゲーム」を盛り上げる演出も入れることが出来る。国民全員が見ることが「義務」らしいけど、だとすると根本的な疑問が頭をもたげる。
 ゲームというのは、歴史が深ければ深いほど様々な「攻略」が出来るものではないか、と思う私である。すでに70数回やってるとある程度アイデアは出尽くしてるでしょうし、パターン化だってするだろう。基本的にはくじ引きによって「贄」が選ばれる中で、ヒロイン・カットニスが70数年という歴史の中で、その地区で初めての志願者、というエピソードを見て「いや、それはないんじゃないか。」と思ってしまった。
 たとえば、その「ゲーム」内容が民衆から「秘匿」されているのならば、それは「畏怖/恐怖」の対象たり得るわけだけど、問題は「国民的リアリティ・ショー」として全国民が見ることが出来るものでしかも「娯楽」として供されていることが描かれている。70過ぎのばあちゃんですら子供の頃からおなじみ、テレビの前のみなさんおまっとさん、アメリカなら「スーパー・ボウル」級、日本なら「紅白歌合戦」級の国民的行事「ハッピー!ハンガー・ゲーム」であるならば、むしろ、「志願者」は増加の一途をたどり、「抽選」しないと出られないくらいにはなっていないとおかしいと思う。
 「死に至る/殺されるリスク」を考えると躊躇はするだろうけど、「貧困」に窮しているならば、むしろそちらに注力するよなあ・・・と思ってしまった。人生を変える富と名声が得られるチャンス、その確率1/24。これを多いとみるか、少ないとみるかである。


 この映画は「アメリカの現在」を皮相的に描いている、という指摘はもっともだと思うし、「貧困層の不満をそらす施策」としての側面が強調されるというのも理解はするのだが、だからこそむしろ「ハンガー・ゲーム」は一発逆転の機会ではないか、と思いもする。浮かび上がれるチャンスなら、貧乏なニンゲンほど、このイベントに賭けるのではないか。根本的なところで「ズレ」ている気がしてしまった。
 死と隣り合わせの「ハンター試験」をくぐり抜けてプロハンターを目指す「HUNTER × HUNTER」や、最初友人の借金の肩代わりに「ギャンブル」に「巻き込まれ」ながら、やがて「ギャンブル」を求めて主人公が地の底に沈んだりする「カイジ」のように、「ハンガー・ゲーム」はむしろ「限定的に公開」された「飢えたものたちに希求され得るもの」か、または、基本的にリピーターを厳然と許さないルールの「ド素人同士の殺し合い」として描かれるべきなのだと思った。
 というわけで、設定の時点でいろいろ「欠陥」のある話を、カットニスと彼女を巡る人々に視点を絞ることで乗り切った物語であるように思う。三部作の第一部ということで、これから先どういう描かれ方をするのかはわからないけれど、日本の漫画の方がこの手の話には一日の長があるように思った。(★★★)