虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「アルゴ」

toshi202012-10-26

原題:Argo
監督:ベン・アフレック


アメリカ合衆国政府は君のSF映画を承認する。」「・・・どうも」


 イランという国が人権という観点において後進国であることは言うを待たない。イスラム教の法体系であるシャリーアの下で、信教の自由、表現、同性愛、非ムスリムや女性への差別や人権的抑圧、などさまざまな問題をはらんでいる。
 その国家体系が出来上がるきっかけとなったのがイスラーム革命である。アメリカは近代化を推し進めるために、イランへの内政干渉を行ってきた。アメリカの介入による宗教的慣習を撤廃し、近代化する流れは、民衆の反発を招き、さらにその反発を押さえるために秘密警察による弾圧や拷問を行うようになると事態は泥沼化の一途をたどる。
 そうした過程を経て起こったイスラーム革命は、言ってみれば民衆による保守化・逆近代化運動とも言えた。日本で例えるなら「明治維新後に多発した士族による反乱が成功して幕府がふたたび作られちゃった」ようなものかもしれぬ。

 長きに渡る抑圧への反発から起こる革命の後に待つのは、「革命前の政府」以上に先鋭化した抑圧を強いる新政府の誕生であることは世の東西を問わない。イスラーム革命の場合、そこに宗教的な因縁が絡んでいる上、国際的な近代国家になることを拒否することで成り立っているため、アメリカとの対立はすでに始まっているし、国際的なルールなど知ったことではないから、民兵は好き放題に暴れ回る。さらに、亡命した元国王バーレビがアメリカへ移ったことで民衆の反米感情はピークを迎える。そして起こるアメリカ大使館人質篭城事件。アメリカ政府及びCIAはその対処に追われることになる。


 その大使館から6名の男女が大使館を出て、カナダ大使の私邸に身を隠したことが発覚することから、物語は動き出す。
 国際的なルールに則らないイラン政府により、混沌とする不安定な情勢下、シーア派ムスリム以外には殺害も過激な刑罰を辞さない民兵が跋扈する首都・テヘラン。彼らの逃亡が彼らにバレれば十中八九、拷問、または公開処刑される危険がある。


 この映画の監督も務めるベン・アフレック演じる、この映画の実質的な主人公・トニー・メンデスは、CIAの「対象」を国外へと「救出」するスペシャリストであるが、それはつまり、アメリカ政府およびCIAの失策の尻拭いをすることが彼の使命である。
 彼は人質篭城事件の人質60名への対応に追われて、後回しにされた「大使館脱出組」6名の救出のアドバイザーとしてその作戦に参加した。国務省に赴いて話を聞いていたが、現実的ではない案ばかりで、仕方なく彼は口を開く。そのどれもが「不可能」であると。なりすまし作戦として「記者」や「教師」、「人権ボランティア」などの案も浮上するが、記者は監視され、外国人学校は閉鎖、季節は「冬」で食糧事情調査もリアリティがない。空港も民兵が常に出国者を管理していてすぐバレる。
 八方ふさがりの中、トニーは別居中の妻に引き取られている息子との電話の中で、電話の向こうで彼が今見ているという「最後の猿の惑星」を眺めているうち、ふとあるひらめきが頭をよぎる。


 ・・・SF映画の撮影。
 撮影隊を組んでそこに紛れ込ませる。・・・馬鹿馬鹿しい。そんな大人数で目立つ真似出来るはずがない。だめだな。・・・いや、待てよ。確か映画の撮影には事前準備が要る。確か・・・「ロケハン」というヤツが。それならば・・・イケるかもしれぬ。


 救出のプロのトニーが頭の中で幾重にもシミュレーションし、その上で国務省に提出した作戦が「第1回 国家の使いやあらへんで チキチキ偽映画のロケハンでイランの6名救出大作戦!」であった。


 この「映画」はイランが抱える「混乱」を救う映画ではない。あくまでもそこに置かれた「同胞の奪還」する「プロフェッショナル」の物語である。彼は「イラン政府」及び「民兵」の尋問のプロが疑ってもなお、「本物」の映画のロケハンである、という「既成事実」づくりから始めて行く。
 その過程をドキュメンタリータッチな映像とスピーディな演出で追いかける展開がもう面白い。知り合いの「猿の惑星」も手がけた特殊メイクアーティストのジョン・チェンバースジョン・グッドマン)のつてを頼り、大物プロデューサー・レスター・シーゲル(アラン・アーキン)と掛け合い、偽映画の脚本選定、がらんとした部屋に電話1本引いただけの偽映画事務所の開設、イメージボードの作成、さらには俳優による脚本の読み合わせをマスコミに公開し、「映画の撮影」が事実である、とマスコミに記事にするよう仕向け、成功する。
 こうして「偽映画」を「映画」に見せる材料を作り上げた彼は、偽映画の「製作補」として、作戦の成功の可能性が限りなく近い、イランの首都「テヘラン」へと旅立つ。


 政府にロケハン許可を申請した後、6名が匿われているカナダ大使の元へ。そして6名に会って作戦の概要を伝えると、当然だけど反発が起こる。演技もできない素人集団が、「別人になりきって、カオスな街へ繰り出せ」という無茶ぶりだから、当然と言えば当然。しかし、トニーは「作戦はこれしかない!」と説得する。
 監視社会と化したイラン。カナダ大使の屋敷も監視されているため、客が長く外出しないとそのことでも怪しまれる。大使館の重要書類は暴徒が侵入する前に焼却、もしくはシュレッダーにかけられたが、シュレッダーにかけられた書類は子供を動員してパズルの要領で修復され、その書類の中には職員名簿も混じっている。スタッフ写真と照合されれば、アウトだ。それまでには「映画のロケハン」としての「活動実態」をイラン政府に示した上で、早々にイランから国外脱出しなければならない。


 6名への説得、素人6名+1人による「ロケハン」、「別人」になりきるためのトニー先生の熱血指導、さらにCIAの作戦中止要請をつっぱねて、作戦を強行される「SF映画「アルゴ」作戦」。不確定な不安要素がつきまとう中で、幾重にも張られた難関をひとつひとつクリアしていく物語は、実にスリリング。やがて、彼らは万全の準備を払い、空港へと向かう。だが、そこには更なる難関が待ち受けていた。


 この映画は実話をベースにした物語である。


 だが、空港でのクライマックスはさらにサスペンスの度合いが増す。誰かが脱落するかもしれぬ、敵はいつか彼らの「正体」に気づくかもわからぬ、さらにはカナダ大使の屋敷にいるメイドはイラン人女性。彼女が裏切らないとも限らない。
 はっきり言って「面白すぎる」展開の連続で手に汗握る展開のつるべ撃ち。さすがにクライマックス終盤の盛り上げ方は実話ベースの物語として積み上げた「ドキュメンタリー・タッチ」としてのリアリティー演出の枠を踏み越えた面白さで、「さすがにそれはないやろー!」とは思う。
 だが、後日談の後、迎えるエンドロール。ここで、この映画は「史実」の写真と「映画」の1シーンを切り取った写真を提示することで高らかに示す。


「これは映画である」。と。


 イランは様々な映画の才能を輩出する映画大国となっていくが、同時に政府の意に沿わぬ映画製作者には「上映禁止」、さらには表現者の映画製作を禁止する、不当逮捕、軟禁などの「表現の自由」への抑圧は続いている。
 この映画は、まっとうなエンターテイメントの傑作でありながら、同時に「映画を撮る自由」で「不自由」なイランから同胞を奪還する物語なのである。(★★★★★)


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