「新感染/ファイナル・エクスプレス」「ソウル・ステーション/パンデミック」「我は神なり」

toshi202017-10-27




監督:ヨン・サンホ

 「固い信念なんてものは、かえって信用がおけんね。だいたい戦争なんてものは固い信念を持ったもの同士が起こすんだからね」
 田中芳樹銀河英雄伝説」より


 韓国のアニメーション監督、ヨン・サンホ監督の作品が、実写とアニメーション合わせてここ2ヶ月で3本公開されて、それを見た。
 「新感染 ファイナル・エクスプレス」「ソウルステーション/パンデミック」「我は神なり」の3本である。

 一言で言って、全て面白い。でも面白さの質、というか、描こうとしているもの、楽しませようとしているものが違う。作品ごとに、描こうとしているものが違うし、それぞれにきちんと独自の突出した個性があるのが、何と言っても驚異的なのである。


 その中でも、映画ファンの圧倒的熱狂をさらったのが今年9月に公開された「新感染/ファイナル・エクスプレス」である。

「新感染/ファイナル・エクスプレス」の圧倒的娯楽性に隠された人間描写の確かさ


 「新感染」はジャンルとしてはゾンビ映画に属する。

 舞台は韓国随一の高速鉄道KTXである。ソウル発の高速鉄道に乗り込んだ、ファンドマネージャーである父親とその娘が、釜山に向かう列車内で、人々がゾンビになっていく感染する災禍に遭遇し、非常に限られた列車内でのサバイバルを余儀なくされる物語である。
 

 何と言っても「新感染」に関しては、私が今年一番涙を絞らされた作品という事もあるんだが、自分がなぜこんなにも翻弄されたかと言えば、一言で言って出てくる登場人物に対する、なんとも言えず「ドライ」な人間観に尽きるのである。


 普通「泣かせ」というと、人はつい「ウェット」に描かないと見ている人間は泣かない、と思いがちだけど、実はそうじゃないんだ、とこの映画は教えてくれる。人というものは追い詰められると「身勝手」で「非情」で「どうしようもない生き物」であるか、という哀しい「事実」をきちんと描けるかではないか、と思うのである。
 追い詰められると人は「自分だけが生き残りたい」と願う。他人を蹴落としてでも自分だけは助かりたい。目の前に広がるどうしようもなく広がる地獄がいきなり訪れたら、実は誰しもがそう考えてしまう。それはどうしよもない「生存本能」ではないかと思うのだ。その本能と情の間で、たやすく人は「本能」を選んでしまう。
 この映画はそんな人間の醜さを余すところなく描き出している。


 そもそも、である。コン・ユ演じる主人公の父親・ソグにしたってが、決して心優しい父親からは程遠く、妻との別居を娘と向き合わざるを得ず、しかし彼女に対してどう接していいかわからない、なんともダメな父親で、自分が彼女に以前何を誕生日プレゼントしたかも忘れて同じものをあげちゃうくらい、ダメなのである。

 そんな父親が釜山行きの列車内で災禍に出会ったときどうしたか、と言えば、やっぱり他の人間と変わることはなく、彼はとりあえず、自分だけが助かる方法だけを考える。自分さえ助かれば周りの人間はどうでもよく、彼はファンドマネージャーとしてのコネをフル活用して、てめえだけが生き残る術を探す。
 その姿を娘はつぶさに見ているのである。



 しかし、彼はあることをきっかけにして娘や他人の為に生き残ろうと決意するのであるが、それは娘からの泣きながらの叱咤を聞いた時からである。自分ひとりでは自分の姿はわからない。ましてや自分を「まとも」で「普通」で「善良」と信じて疑わない人ほど、そんな自分の醜さを認めることは出来ないものなのである。彼が自分の「醜さ」と真摯に対峙したときに初めて、彼は「まとも」な主人公として映画の中で動き始めるのである。彼はこの絶望的状況で出会った数少ない乗客、ワーキング・クラスのサンファ(マ・ドンソク)、彼の妊娠中の妻・ソンギョン(チョン・ユミ)ら数人とともに、娘を救うために闘い始める。

 だからこそ、我々観客はこの父親に心から共感し、「生きて欲しい」と願い、彼の闘いの果てのある決断に、涙が止まらなくなるのである。

「ソウル・ステーション/パンデミック」でより深まる、哀しい人間と非情な社会への眼差し


 さて。その前日譚となる映画がヨン・サンホ監督の3作目の長編アニメーション作品「ソウル・ステーション/パンデミック」である。


 この映画の特徴的な点は、人がゾンビ化する災禍に出会った登場人物たちが「新感染」よりも社会的に下層の人たちばかりであるという点である。「新感染」は高速鉄道という割とお高めな移動手段を使える人々であるが、「ソウル・ステーション」に出てくる人々は、そんな移動手段を簡単には使えない、くらいの人たちが多い。そもそも最初の犠牲者はホームレスなのである。
 この映画のヒロインだって、10代で家出した元・風俗嬢で、借金を背負わされて逃げ出し、行き場をなくして彼氏の部屋に厄介になってはいるが、彼氏はネットで彼女に売春させようと持ちかけてくる甲斐性なしで、経済的に部屋代も滞納し続けている状態で大変困窮している。

 相も変わらず彼女に体を売らせようとする彼氏に愛想つかしたヒロインが部屋を飛び出して、街をさまよっていたところ、彼女はゾンビ禍に遭遇する訳であるが。その頃、ネットで売春を呼びかける写真を見た彼女の父親が彼女を探しにやってくる。
 ゾンビに追われ続けながら、彼女が思うこと。それは「家に帰りたい」と思うことだった。彼女は父親と再会し、「家」へとたどり着けるのか。

 この映画に関して言えば娯楽要素よりも、一度落ちたらなかなか這い上がれない、人間社会の格差。その分厚くて非情な壁を、下層に「落ちてしまった人々」の目線で描き出しており、ゾンビ事件も登場人物たちにとって十分脅威なのだが、それ以上に下層の人々を切り捨てる「人間社会」の怖さの方がより空恐ろしく、なんとも腹にズンと重くのしかかる。
 格差社会というものがどういうものか、それをゾンビ禍の中で逃げ惑うヒロインを通して浮き彫りにしていくという離れ業をやっており、娯楽性の高い「新感染」に比べると、作家性がより色濃い作品になっている。


「我は神なり」が描き出す、「神なき世界」に置ける「信仰」の意味。

 「新感染」「ソウル・ステーション」が2016年に韓国公開された映画であるが、アニメ監督として2013年に発表したのが本作「我は神なり」である。
 この映画の彼の目線は、前の2作よりもさらに辛辣に人間社会を見据えている。ヨン・サンホ監督は、哀しく弱い人間という生き物の「業」を「信仰」を通じて描こうとする。


 舞台はダム建設によって沈むことが決定している韓国のとある村である。

そこへやってくるのが宗教を看板にして、村人たちに支払われる補償金を分捕ることが目的の詐欺グループであり、彼らはカリスマ性ある牧師・リンを通じて寄る辺なき村人たちの心を掴んで今まさに食い物にしようとしていた。
 一方その頃、村に一人の男が帰ってきていた。ソウルの大学に合格した娘の進学資金を、一夜にしてギャンブルで使い果たして悪びれもしないその男・ミンチョルは、村の人々からは厄介者あつかいされていたが、彼はその独自の嗅覚で、詐欺師の存在と彼らが行おうとしている犯罪にいち早く気づき、それを止めるべく動き出す。



 「神に見捨てられた村」の村人たちの心を癒そうと「やさしい嘘」を語る牧師・リンは村人たちから心酔されており、神をも恐れず村人たちが信じる宗教を「詐欺師」と触れ回るミンチョルは村人から「悪魔に憑かれている」と白眼視され始め、周りは彼を遠ざけ始める。一方詐欺師グループも、ミンチョルを排除しようと動き始める。


 詐欺師たちの語る「心癒される嘘」か、神をも恐れぬ男の「絶望的な真実」か。あなたならどちらを選ぶ?
 この強烈な問いは、観客に簡単に答えを出させない。


 この映画がすごいのは、決してどちらかを善、どちらかを悪と規定しない事である。詐欺師グループが開いた宗教が、村人たちに与える「効能」を映画はしっかりと描き出し、神なき世界を見据えるミンチョルもまた、心が離れていく娘への執着を捨てきれぬ。誰もが人は、何かにすがらねば生きてはいけぬ。それは決して例外はない。そんな人間の「業」を見据えているのである。

 自分が犯した悪行がきっかけで、詐欺師たちの宗教が語る「優しい嘘」に心を取り込まれていく娘を、ミンチョルは必死に押しとどめようとする。だが、彼女からその嘘を奪って、さて、離れた彼女の心は戻るのであろうか。
 詐欺師の片棒を担いでいると自覚しながらも村人たちに「癒し」を与え続けるリン。だが、彼もまた、心にある「執着」を抱え、苦しんでいる。誰が正しくて、誰が悪いのか。


 この映画はそんな善悪定かならぬ物語に、いちおうの決着をつける。その結末をあなたはどう感じるのか。是非、一度御覧いただきたい。人という生き物の不完全さを見据えた傑作である。 

ヨン・サンホ監督作品を通して鑑賞することで見えてきたもの。


 ヨン・サンホ監督の眼差しは徹頭徹尾「神が不在の世界で生きる人間」を見据えている。それはゾンビという題材であろうとそうでなかろうと変わらない。この映画に英雄はいない。ただ人間がいるだけだ。
映画の主人公だろうとそうでなかろうと、人はどこまでも愚かで救いがたい、不完全な生き物だ。
しかし、だからこそ。人は追い詰められた時、何を選び取るかによって、その人の価値は測られるのではないか。


 さて。


 ここからは「新感染」の話になる。
 やや、ネタバレなので見てない方は、見てから読んでください。







 実は「新感染」を見終えた時、ひとりの登場人物のことが頭から離れなかった。それはバス会社で常務を務める乗客の男性である。


 彼は本作においてはゾンビ以上の悪役的な立ち位置として物語を牽引し、その行動は多くの観客をイラつかせ、または激怒させるに十分であった。
 Twitterでは彼への怨嗟の声渦巻き、「もっと惨たらしく死ねばいい」という声もあった。

 しかし、この映画の終盤、彼が放った台詞は、私の心にある逆転を起こした。


 そうか、そうだったのか、と。


 彼はただ怖かったのだ。そして、どうしても生き残りたかったのだ。ただ、それだけだったのだ。


 確かに彼は主人公のように「他者のために闘う」道を選び取る事が出来なかった。あまつさえ、多くの犠牲の果てに生き残ろうとした。普通に考えて、許される事ではない。


 しかし、だ。
 我々は果たして彼を責められるのだろうか。いきなり地獄のような状況に叩き込まれ、わけも分からず命の危険に晒されて、怖い、死ぬほど怖い、それでも生きたい、死ぬわけにはいかない。ただそう願った、そんな一市民である彼を。
 観客は忘れているが、彼もまたこの災厄に巻き込まれた「被害者」でもあるのだ。

 彼は一言で言えば「主人公の影」である。もしも同じ列車に娘がいなかったなら。または、涙をこぼしながら彼に言葉を投げかけなかったら。主人公はどういう決断をしたろうか。他者を押しのけてでも、自分だけ助かろうとしたのではないだろうか。

 そして胸に手を当てて考えてみて欲しい。
 私たちは同じ状況に陥った時、このバス会社常務氏と同じ事をしないと胸を張って言えるだろうか。


 そう考えると「新感染」という映画はより、空恐ろしい映画に見えてくる。ヨン・サンホが見据えてる世界は、善も悪もない。絶望と希望が紙一重の、神なき世界の「ニンゲン」たちのどうしょうもない蠢きを描き続けているのである。
善に見えるものも、悪に見えるものも、実は等しく同じ人間であり、彼らが選び取った方法で人物の「いい悪い」を区別してるに過ぎなかったのだ。「こんなこと」さえなければ、彼らは「ごくごく普通の一般市民」だった。つまりこれはこの映画に出てくる誰も彼もが、我々の「可能性」だったのだ。


  私に言えることは、「神のいないこの世界でゾンビに襲われた時、せめて人間らしい決断を選び取れるよう、心して生きたいものだ。」という事だけである。
ヨン・サンホ監督の映画は観客にすら刃の切っ先を向けて試してくるのだ。



「あなたならどうする?」と。