虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ゲド戦記」

見せ物吾朗たんハァハァ。

監督・脚色:宮崎吾朗 原作:アーシュラ・K・ル=グウィン


 あっれー。えー。ありゃりゃ?


 おお?結構面白かった?


 いや、なんで疑問系かっつーとあまりにも壊滅的な前評判を受けて見てみたら、きちんとジブリ色を残ししつつ、宮崎吾朗としての屈折が加えられた「ゲド戦記」だったからで。けっこうまともじゃねーの。しかも影響受けた作品のイメージを片っ端からぶちこんでいるせいか、最後までスクリーンに引きつけられてた。
 いやだって、えええ。なんで?観る前は不安で不安で。正直、あんまりな出来映えだったら「ジブリの均衡が崩れ始めうんぬんかんぬん」とか書いて、感想書かずにお茶濁そうかと思ってたのに(笑)。アニメ経験ゼロの新人監督がここまでのもの作ったの?って聞き返したくなりましたよ。過去の宮崎アニメに比べれば粗い出来ではあるが、そこは新人監督。いちいち比べるのはヤボってもんだ。少なくとも愚作ではないよ。



 まあ、原作ファンが納得いかないとか、そういう話ならわかる。原作との違いを述べていくとかなりの数に上るし、そもそも話がシャッフルされているし、主要キャラの設定自体が変わってるんで、別のものと割り切るしかない。でも、おれは映画というのは原作を崩しても自分の感覚に合わせていいと思ってる人間なんで、「原作」にこだわりすぎて破綻する映画(例:キングコング)や原作のダイジェスト(例:ブレイブ・ストーリー)なんかよりは、粗さはあっても原作を叩き台にして自分の物語を語ろうとする姿勢は好ましいものと映る。
 俺にとって、重要なのは彼が何を描こうとしたかということ。


 今回の物語はおおまかには3巻を援用しながら、そこに4巻の「疑似家族」の要素を入れて、いくという構成。だが一番違うのは「アレン」で、原作とはまるで違う屈折が色濃く添えられていて微笑ましい。なんせいきなり、父殺し(そのまんますぎるよ!)の「罪」を抱えさせてしまう上に、自らの「影」に追われているという、1巻の青年ゲドが一時期持っていた不安を抱えている。
 「罪」と「死」への恐れにさいなまれる青年をハイタカが導くという構成なのだが、彼はあくまで彼の精神的な師であり、答えを与えはしないし、彼自身の危機に絶対的なチカラを発揮しない。この世は均衡によって成り立っている、という陰陽の理のような思想を与えられはするが、それがすべてを救いはしない。ゲドの力がすべてを救うわけではない。


 説明不足な点はある。真の名という設定やら魔法のイメージのわかりにくさ、キャラクターの背景の描写をばっさり切るなど、明らかに不親切。そこら辺をもうちょいうまく提示するべきだと思った。それでも、このなんとも言えず、このぐずぐずと煮え切らなくて、キレやすい、どうしようもなく不安定な存在の主人公によって、宮崎吾朗特有の鬱屈がでているのは、ああ、なんて素直に自分を出すんだろう、と嬉しくなってしまうのだ。
 その鬱屈からどのように解放されていくか。物語の焦点がそこへと移動していく。彼は「コトバ」を欲している。「ゲド戦記」の魔法の概念は「陰陽師」のそれに似ているかもしれない。言魂や名前によって人を縛り、アレンはそれに流されていく。自分を持てずに、自らの恐れに対峙できずにいる。クモが縛るのは言葉の力だし、アレンを救うのも言葉の力だ。説教臭いと移る言葉も、あれはアレン自身が望んでいた言葉なのだ。


 テルーから自らの境遇に向き合っている人間の言葉を聞いて、自分の罪も死に向き合うことが出来たとき、彼は初めて自らの「影*1」や、人生、境遇を「受容」し、生命のために生きる力を獲得する。吾朗監督自身の心の道程が、あまりにもわかりやすく素直に語られるため、やや言葉がひとりよがりという感がありはするけれど。
 テルーの●●はやや唐突にすぎる感はあるが、そこまでへと至るアクションはわりと「おっ」と思う。ここまで積み重ねてきたアレンくんの「頼りなさ」「か弱さ」が「ハラハラ」とさせる効果になっていて、宮崎駿作品とはまたちがった「アクション」の見せ方になってて好ましい*2



 作家としては未完成な部分を残しているし、「ゲド戦記」のファンを納得させうるか、といわれると、クビを傾げるものの、俺の中では全然、「映画」だと思った。ここまでやれるのか、と思った。宮崎吾朗の次回作があるかはわからない。ただ、どのような形であれ、続けてみるのもいい。経験を重ねた時、どのようなものを見せるのか、見てみたい。なによりも、宮崎駿なしで、素人同然の監督がきちんと映画を完成できる、という製作体制の確立は、ジブリの新たなる一歩としては意義深いものに感じる。(★★★)

*1:実は彼自身が陰で、転じて「影」が陽なわけだけど

*2:個人的には「ico」を思い出した。