虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ミリキタニの猫」

toshi202007-09-29

原題:The Cat of MIRIKITANI
監督: リンダ・ハッテンドーフ



 あのビルに、飛行機が突っ込む前。ニューヨークの片隅、彼は韓国人街の店の軒先で絵を描き続けていた。彼の「猫」の絵に惹かれて話しかけたリンダに彼は答える。「カメラでワシを撮ってくれ」。
 それから、通勤の行き帰りの途中に、彼女は毎日のように彼と話しかけるようになる。それが彼女と日系アーティストで自称「グレートアーティスト」ミリキタニ氏のドラマの始まりだった。
 この映画は、ミリキタニ氏の過去、そして現在についてのドキュメンタリーである。



 この映画をどう捉えるべきなのか、というと難しい。と思った。一人の老人を通して語る、原爆、9.11、そして、強制収容所の悲劇。作品や監督の意図はものすごく明快なのだけど。被写体と撮影者という関係性を、この映画はもう一歩踏み込むことから、この映画は始まっている。つまり、この映画はコミュニケーションの物語なのだと思う。


 そして2001年9月11日。あの事件が起こる。空気汚染がひどい町中で、マスクをしながら老人は生活を続けていた。それを見かねたリンダは、彼を自宅に引き取る。彼女が彼に親身にしていく中で、ポツポツと語られ始める「ジミー・ツトム・ミリキタニ」の人生。それは、まさに波瀾万丈と言ってもいい生涯だった。



 心に絶望を抱えたまま生きていた老人を、善意・・・以外のなにかもふくめて、結果的に彼に同居することになる。若い彼女が彼をどのようにして受け入れるに至ったのか。映画ではそれが示されないのだけれど(ここはもう少し彼女自身の説明が欲しかったところ)、上映後に行われたプロデューサーのティーチ・インによると、ミリキタニ氏の原爆の話を、彼女が覚えていたためという。死の灰放射能。今も原爆症で苦しんでいる人がいるのは、大気が放射能によって汚されたからだ、とミキリタニ氏は彼女に言っていて、そのことで彼女は、「ほっておく」わけにはいかない、と保護することを決意したらしい。
 リンダという人にとって、ミリキタニ氏はどういう存在なのか。それがきちんと示されないと、ここまで親身になる意図が分からないのだけれど、ただ、その意図を超えた関係性が、頑固で反骨な精神で現在を生き抜いている老人の人生を、結果的にこれほどまでに掘り下げる結果になったのは間違いなく、そのことには素直に脱帽である。


 この映画で示されているのは、だれにでも人生はある。ということだ。彼女にとってそれを知るきっかけになったのが「ミリキタニ」氏の深奥に刻まれた、絶望と苦難。それによって、閉ざされた心を、彼女は彼との同居生活の中で知っていく。
 結果的に彼の人生を掘り下げる過程で、「原爆」「911」「強制収容所」と、戦争の負の部分がキーワードとして連なっていくことで、この辺は監督の直感も多分にあったと推測するのだけれど、「反戦映画」の要素が多分に入ってくる。


 しかし、この映画が神懸かっているのは、彼自身の過去が、リンダによって「現在進行」のドラマと見事に一体となる過程。現在進行の「ミリキタニ」氏の被写体としての強靱さ、基本的にやわらいけど芯は硬い人柄、その彼の「現在」がそのまま、「絶望の先の希望」のエピソードとして素晴らしい。
 また、彼女とコミュニケーションを図るなかで、過酷な生涯のなかで積み上げられてきた「アメリカへの憎悪」の気持ちが少しずつ溶け出していく過程なども見えてきて、孤独に自らのプライドだけを恃みに生きてきた老人に、多くの仲間が出来ていくところなど、うまくエピソードが絡み合っている。


 この映画が、このように完成し、問題提起も含みながらもエンターテイメントとしても優れた物語になったのは、リンダさんのミキリタニ氏への好奇心と、9.11から連なる平和への希求への意識がうまいことシンクロしていく。また、彼女は、彼女の知りうる限りのことは調べながらも、それをミキリタニ氏の言葉を補強するカタチにしていく辺りに、この映画の押しつけがましくない慎みも感じられて、非常に巧い。


 彼女が保護することになった反骨老人の半生を追う中で、素直に「知って欲しい」と思いながら、平和への祈りも込めて作り上げた。この映画で監督がたどり着いたのは、人間への興味ナシでは踏み込めない領域だと思う。だからこそ、この映画は、とてつもなく愛しい映画になった。そう思う。(★★★★)