虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「紅の豚」以後から始める「宮崎駿」の話

toshi202013-08-28







 「美少女は世界の宝だぞ!」


 というわけで、「風立ちぬ」公開からしばらく経って、色々な意見を読んだ上で、色々思っていたことを書きたいと思う。宮崎駿の作品の中で締める「紅の豚」の重要性について、である。


【関連エントリ】
風立ちぬ」感想:うごめく世界の片隅で「風立ちぬ」 - 虚馬ダイアリー



 シンプルな娯楽アニメーションの魅力が横溢していた時代を指して宮崎駿の全盛期と呼ぶ人は多い。「未来少年コナン」から「魔女の宅急便」あたりまでの作品は必ず人気ランキングでも上位に食い込むことが多い。
 しかし、である。本当に宮崎駿が「映画作家」として映画と対峙するようになるのは「紅の豚」以降なのでは無いか、と僕は思ったりする。


 宮崎駿という「作家」を語る上でふと思うのは、本当に「受け」とか関係なく、作りたいものを作る、という環境に初めて巡り会えた時、宮崎駿が作ったのが「紅の豚」なのだと思う。「飛行機」「自意識を多分に投影した主人公」「おっさんとおっさんの、美少女を巡る決闘」。やりたいことを全部詰め込んだ、趣味性の爆発はまさに「紅の豚」とともにあった。
 それを可能にしたのは、「魔女の宅急便」の興行的成功であったことは間違いない。


 「トトロ」「火垂るの墓」の興行的不振から、「魔女の宅急便」は全体的に「商品」としてすみずみまで気を配られた作品で、宮崎駿のテクニックが、すごくさりげない形で自然に配置されている。
 さらに、タイトルが入るときの「ルージュの伝言」の使い方の配置といい、すごくキャッチーで、なおかつ「アニメファン」や「子供」だけではなく、「オトナの女性」が見ても恥ずかしくない、「デートムービー」としても見ることが出来るくらいの、非常に間口の広い客層を狙える作品になっていた気がする。興業成績21億円という当時のアニメーション映画としては異例のヒットを飛ばし、客を呼べる監督としての地位を確立して、さて次作。スタジオジブリとしては高畑監督の「おもひでぽろぽろ」をはさんでの、宮崎駿監督の新作が「紅の豚」なのである。



 もしもである。宮崎駿の作家人生を二つに分けるとしたならば。僕は「魔女の宅急便」以前/「紅の豚」以後とすべきだと思う。「紅の豚」という作品を作ることで、宮崎駿の新たなステージが始まったと思うからだ。


 世間のウケを気にしないでいい。自分が本当に「面白い」と思うものを詰め込んだ映画を力一杯作る。なにせ主人公は「豚」の姿になった、「宮崎駿」であり、彼の好きなものをすべて詰め込んでみせる。
 それをやっていい、となった時に、初めて宮崎駿監督は、アニメーション作品に「涅槃」を登場させる。「死」のイメージである。
 ここから宮崎駿は「生」と背中合わせの「死」を明確に描く。「涅槃」の向こう側に行こうとする過去のポルコを、かつて死んだ友人が置き去りに涅槃へと向かうシーンである。「私」を初めて描いた物語で、初めて見せる「向こう側」を見る主人公。豚になる「魔法」は「生き残ってしまった」戦友への贖罪であり、自らに課した「呪い」でもある。


 「紅の豚」から5年後にようやく「もののけ姫」(1997年)は完成するのだが、その間に漫画版の「風の谷のナウシカ」の原作漫画が完結(1994年)。それを受けて、映画版「ナウシカ」へのリベンジの意味も多分にある「もののけ姫」以降、宮崎駿曰くの「俗受けしない」アンチクライマックス志向が加速する。


 「呪い」は「紅の豚」以降の重要なモチーフとなる。「もののけ姫」ではタタリ神を斃した時にその身に呪いを受け、それを解く旅の末にタタラ場へとやってくる。「千と千尋の神隠し」(2001年)は豚になる呪いを受けた両親のために湯屋で働くことになる少女の話だし、「ハウルの動く城」(2004年)はソフィーがハウルに近づいたために、荒れ地の魔女の老人になる「呪い」を受ける。「崖の上のポニョ」(2008年)もまたフジモトが世界を海に帰す魔法(世界への悪意という呪い)をその身に受けて人間化する。
 生きることは「呪い」とともにあることだ。それは宮崎駿が「紅の豚」で「私」を描き始めたときから、明確にある。「死」「老い」「呪い」ととにある「生」と恐れずに対峙する。そんな宮崎駿が発現したのが「紅の豚」であると思うのである。


 紅の豚で初めて描かれた「死」と「呪い」は派手な飛行機の空中戦の向こう側に隠されてしまったが、もののけ姫では「死」から始まる「呪い」を受け「呪い」とともに生きねばならぬ、という覚悟を決めるまでを描く。千と千尋では「呪い」から始まった物語は、ついに「涅槃」の向こう側へと千尋カオナシを触媒にして踏み込んでいく。ハウルでは「老い」という呪いを受けることで、心のありようで「老い」という呪いは時に消え去る(ように感じる)という老人のリアルを織り込む。「ポニョ」は宮崎駿が建てた「幼稚園」をその近くにある「デイケアセンター」(スタジオジブリ)がある世界が舞台となる。


 「老い」「死」という呪い。それに伴い、残酷に無くなっていく「人生の残り時間」。その残り時間の少なさを自覚したときに、宮崎駿はついに、切迫した時代と呼応するように「生」きることを「呪い」ではなく、時間が無いからこそより自分の思うとおりに「生」を貫くのだ、という方向へと舵を切る。


 そして、宮崎駿は「風立ちぬ」で一線を越える。切迫した時代の空気と難病を抱えるヒロインを登場させることで、ヒロインを初めて「嫁」にするのである。
 

 元来、宮崎駿という人は、投影する人物というものは、良きにつけ悪しきにつけ、オトナとして「ヒロイン」を庇護し、守護する存在であるか、または、主人公の壁とナル存在でなければならず、ヒロインと一線を越えることを決して良しとはしていない。ヒロインと対になる男子は、女子が惹かれるべくして惹かれる陽性で明るい、健康で前向きな少年、もしくはイケメンな青年でなくてはならぬ。
 そういう不文律から外れた作品が二つある。それが「紅の豚」と「風立ちぬ」なのである。


 「紅の豚」は初めての「私映画」であり、そして美少女ヒロイン・フィオが少しずつポルコに惹かれていき、ポルコも彼女の為に決闘を引き受けるが、守護者・庇護者としての目的を取り戻し、フィオをジーナに託す。そして、ジーナは「賭け」*1に勝ち、フィオのキスで人間に戻ったポルコは、ジーナの元へと向かうことが、ラストにさらっと触れられる。つまり「オトナ」として現実に帰って行くわけである。


【関連】検証!? [紅の豚] 実はジーナは賭けに勝っていた! - NAVER まとめ


 それを庵野秀明なんかは「パンツを脱がない」と批判するわけであるが、自分の映画は「子供が見るもの」であるという自覚がある宮崎駿という作家からすれば、「子供の前でパンツは脱げない」というのが本音ではなかったか。イケメンな自意識を豚の仮面で隠しながら。


 しかし、「風立ちぬ」では、同じ「モデルグラフィックス」連載の趣味性の高い原作、「飛行機」と「美少女」についての映画でありながら、ついに「パンツ」ならぬ「豚のじゅばん」を脱ぎ捨てて、自らの「心のイケメン」を具現化させ、それをヒロインの相手役にしてしまう。「大正」から「昭和」にかけての切迫した時代の中で、生きにくい時代を生きる二郎(という名の宮崎駿)はたばこをプカプカ吸い、ちょっと陰気で、常に机にかじりつき、仕事では「天才」と言われる男。不健康で「地獄」と化していく時代の現実に目を背けながら、「人殺しの道具」でもある戦闘機の設計を黙々とこなしていく。

 そんな男が、ヒロイン・菜穂子と震災の混乱した中で出会い、強烈に惹かれあい、彼女が結核を患っていることを知りながら結婚の約束をし、全力でイチャイチャさせ、結婚の儀式をしっかり描いてから、ついには床入りから新婚生活まで描いてしまう。原作の「妄想カムバック 風立ちぬ」でもそこまでは描いていないはずである。
 プロデューサーの鈴木敏夫も苦笑いである。

鈴木敏夫「(菜穂子は)身体が悪いから結婚したあともね、彼女は布団の中で伏せっている。彼(二郎)が帰ってくる。彼は家で仕事をしなきゃいけない。ていう時に、菜穂子は?」
瀧本美織(菜穂子役)「『手をください』
鈴木「そう手を出して。彼の手を握るでしょう?そうすると彼は片手だけで仕事をしなきゃいけない。そういう女性はどう思いますか?」
瀧本「可愛いと思います。」
鈴木「でさ。計算尺を動かして、それを置いて、また書く。やってる途中でね、『タバコ吸いたい』って言うじゃない。『ちょっと離してもイイ?』って。すると(菜穂子は)どう言った?」
瀧本「『ダメ。ここで吸って』
鈴木「(大笑い)ほんと、馬鹿だね、宮崎駿は。
(「鈴木敏夫ジブリ汗まみれ」瀧本美織ゲスト回のPODCASTより抜粋。)


 「死」も「老い」も受け入れ、涅槃を見て帰っても来た。生きる「持ち時間」の少なさと、震災以後のまことに生きづらい世界との再来が近づいている今の日本という現実との折り合いの中で(ここを見落とすと単なる変態と狂気なだけの人になる)、「結果として」自らの「飛行機という美しい夢」と自らの「欲望」に誠に忠実に突き進むことになった。
 そこから見える風景はその代償であり、宮崎駿が降り立った震災の被災地の姿ともダブる。しかし、それでも生き残った我々は生きねばならぬ。「呪い」にも似た「生」をもって、この時代と生きねばならぬ。


 かつて僕はあるエントリでこう書いた。

 あなた方が望む「宮崎アニメ」はこれからますます貴重になる。瞬きは許されない。「千と千尋」がわけわからない?「ハウル」が意味不明?「コナン」はよかった?「ラピュタ」は良かった?あなた方の遠き日の思い出など知ったことではない。過去を引きずって今の宮崎駿を軽んずるな。宮崎駿という天才と時代をともに出来た幸運を、未来でかみ締めたって遅いのだ。克目しろ!目を凝らせ!寝言は墓場で言え!

 宮崎駿の生き様を感じられるのは今しかないのだ。

天才の「継承」はあるか - 虚馬ダイアリー


 宮崎駿の作家としての蠢動は、「今」だ。70歳を越えた今も、である。その「死」も「老い」も越えた境地へと至る、その覚醒はどこにあったのか。それを考えると、色々面白いと思う。



 


紅の豚 [Blu-ray]

紅の豚 [Blu-ray]

飛行艇時代―映画『紅の豚』原作

飛行艇時代―映画『紅の豚』原作

*1:「私 いま賭けをしてるから/私が この庭にいる時、その人が訪ねてきたら、今度こそ 愛そうって賭けしてるの。でも そのバカ、夜のお店にしか来ないわ」