「かぐや姫の物語」

toshi202013-11-23

監督・脚本:高畑勲


 結論から先に書く。傑作である。


(「竹取物語」なのでネタバレも何もないが、未見の方はとりあえず、読まないで映画館に行かれることをおすすめする。)



 この映画を見る前にジブリにまつわるドキュメンタリー「夢と狂気の王国」を見ていて、強く感じたのはこの映画に映らない高畑監督の存在だった。そのドキュメンタリーの眼目は、被写体として力強い宮崎駿監督、鈴木敏夫プロデューサーの被写体としての強さを頼みにしながら、その実描こうとしているのは、彼らの人生を強く左右した高畑勲という巨人の存在である。
 高畑勲という存在がなければ、今の彼らの人生も「スタジオジブリ」という、世界でも希有で奇妙なアニメスタジオは存在しえなかったわけである。青春のすべてを高畑勲に捧げたからこそ、宮崎駿という不世出の偉才は、今のような形で世に出る「縁」を得ている。


 そして、断片的に語られるその高畑勲という人のありようを見ていると、とにかくプロデューサー泣かせであることがわかってくる。宮崎駿いわく「偉大な存在」にして「性格破綻者」といい、鈴木プロデューサーは「理解不能」「完成させる気ないでしょあの人。」「宮さんはね、まだ完成させようとしますからね。まだいいですよね。」という恨み節、「かぐや姫」のプロデューサー、西村義明さんは精悍なイケメンにも関わらず、スクリーンに映る彼は常に顔がひきつっている。


 で。「ビジュアルガイド」に掲載された、西村プロデューサーのインタビューというものを読んで。それがまああまりにめんどくさい高畑勲という人のお人柄がよく出ていて戦慄するのだけれど。とにかく一本作品を作ってもらう、そこまでに「ジブリの人間」が数年、1日10数時間付き合ってなお、なかなか映画を作ろうとしないわけである。
 それで、いざ作り始めると、映画作りが延々と終わらない。完成の目途が見えない作業を、延々と繰り返し、とにかく先が見えない。映画の完成形が見えているのは監督だけで、プロデューサーはとにかく彼のフォローに奔走する日々なわけである。


 もっと早く完成するはずだった作品が遅れに遅れ、後発の宮崎駿監督「風立ちぬ」に追いつかれ、しまいには追い抜かれ、今年の夏に同時公開することで話題をかっさらおうとした鈴木プロデューサーの意図すら無視したまま秋公開にずれ込み、ようやく完成の運びとなった。それが「かぐや姫の物語」である。
 その間、高畑勲に邂逅した頃、20代だった西村青年は30代のおっさんになっている。


 14年。その間、ジブリの「偶像」として隠然としながら、長く新作を世に問うてこなかった人。そして、その間、多くの人を困らせ、振り回し、それでも多くの人の尊敬と畏怖を集め続ける。高畑勲の8年、いやそれ以上の時間をかけて、彼は何を語ろうとしたのか。


 それは日本の最古典「竹取物語」をして、「わがまま」なヒロイン、かぐや姫の物語
 「わがまま」。それはまさに高畑勲という人が押し通した製作姿勢そのものである。


 長年スタジオジブリ宮崎駿との二枚看板で走り続けた高畑監督は、突如、前作「ホーホケキョとなりの山田くん」で水彩画風の画でアニメーションを施すという手法を世に問い、そしてスタジオジブリ作品でかつてないほどの惨敗を喫する。
 そもそも、僕の記憶が確かならば、「となりの山田くん」は長年暖めていた企画、「平家物語」の映画化企画のための壮大な実験であったと思うのだが、この興行的失敗は高畑勲という監督人生そのものを大きく後退させた。


 しかし。彼は「かぐや姫」の映画化という題材を得て、彼が取り組みたかった「理想」の手法を再び世に問う機会を得た。水彩画風のアニメーションの確立。それはまさに最新のデジタル技術の恩恵を受けながら、もっともアナログを感じさせる手法である。コンピューターの性能が上がった今ならば、「となりの山田くん」ではやりきれなかったところまで踏み込みながら作ることができる!
 宮崎駿が最も恐れる天才でありすべての源流、高畑勲という天才がわがままを突き通し、いつ終わるともしれない作業を延々と繰り返し、その間に制作費は人件費を含めて総額50億円という明らかに1回の興業ではペイできない額を使いながら完成させた本作。

 それはまさに、現代のメンタリティを持つ「異界」の少女が「平安」の世に降り立った物語である。彼女はなぜ地球へ降り立ったのか、そしてなぜ、あらゆる求婚を袖にして月へと帰っていたのか。


 そのありようはまさに先鋭的な水彩画的なアニメーションで瑞々しく描かれる。わらべ歌の中で歌われる「鳥、虫、けもの、草木、花。春夏秋冬つれてこい」という歌詞でも歌われるように、豊かな自然あふれる大地に降り立った喜びを全身で楽しむ「ひめ」の姿は非常に魅力的だ。異様に成長が早いことから、近所の子たちに「たけのこ」とよばれる「ひめ」は実にはつらつで快活な少女である。
 しかし、翁が「ひめ」の幸せのためにと、都で大きな屋敷を建て、彼女を朝廷の貴族たちに売り込もうとすると、「ひめ」の人生は暗転しはじめる。

 あらゆる礼節や芸事を身につけ、「なよ竹のかぐや姫」という名を与えられ、その名前で貴族たちの中でその美しさが話題の的になっていくのだが、「ひめ」であり「たけのこ」である彼女は、ある一計を思いつく。


 「かぐや姫」という偶像としての存在。「たけのこ」と呼ばれた、実像としての私。求婚してくる貴族たちは「偶像」という幻の私を愛でようとしているだけで、「たけのこ」である「実像」の私を理解してくれるわけではない。


 「かぐや姫」は「わがまま」を通すことで、何を守ろうとしたのか。それは、「自然の中で生きた本来の私」である。それこそが、大地と共に「人」として生きることなのだと。
 翁の愛に答えたいと思い、媼の昔と変わらぬ姿に支えられながら、彼女はつらい日々を乗り越えていたのだが、ついに「月へ帰りたい」と心から願う瞬間が訪れてしまう。


 世を騒がせ、多くの人を振り回し、そして最後には月へと帰って行く「わがまま」な女性「なよ竹のかぐや姫」。しかし、彼女がなぜそんな「わがまま」を貫かねばならなかったのか。それを余すところなく描ききった本作は、まさに「高畑勲」という作家が、齢78にして、アニメーションを新たな地平へと切り開こうとする野心的な天才であることを証明した。


 改めて書く。傑作である。天才アニメ監督が多くの人を「わがまま」で振り回しながら8年もの歳月を賭けた執念の137分、大スクリーンでご堪能あれ。(★★★★★)