虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「コクリコ坂から」

toshi202011-07-16

監督:宮崎吾朗
原作:高橋千鶴佐山哲郎
企画・脚本:宮崎駿
脚本:丹羽圭子


この映画のヒロイン・松崎海はファザコンである。
 
 彼女は当番である朝食の準備を、慣れた手つきですませると、外へ出て、坂の上に建つアパートの庭先にある旗竿に「安全を祈る」信号旗をくくりつけて掲げる。この旗竿はあまり多くを求めぬ気性の彼女が、唯一言ったわがままから立ったものである。彼女はこの旗竿で物心つく前に亡くなった父親に向けて、信号旗を揚げたい、という願いを、祖母は聞き入れた。
 以来、朝に旗を掲げ、遠く海をみつめる彼女は、海の向こうへと消えた父親の面影を追っている。

 ある日、校内新聞に、匿名で、コクリコ荘から彼女が掲げる信号旗への思いを綴った詩が載り、彼女はその詩にくぎづけになる。それはまるで、父親から彼女に返ってきた言葉のようにも見えた。
 その詩を書いた少年は、船を使って高校に通っている。少年が乗る船からは少女は見えない。そして少女からも少年は見えない。ただ、掲げる「安全を祈る」旗だけが見えた。その旗に、少年は毎朝返礼の旗を揚げている。


 旗だけが、少年少女をかすかに繋いでいた。しかし、幸か不幸か、そう幸か不幸か、少年と少女は出会うことになる。


 さて。
 宮崎吾朗監督は、宮崎駿監督の不肖の息子的な語り方をよくされる。かつては、宮崎吾朗監督就任は、スタジオジブリ世襲ではないか、という声もよく聞かれた。
 しかし、僕は「ゲド戦記」を見たときに思っていたのだけれど、宮崎吾朗監督は飲み込みはすごくいい人なんじゃないか、と思った。シナリオはこびは決して上手くはないし(むしろ下手)、演出も父親に及ぶべくもないとはいえ、30代後半で徒手空拳で日本屈指のアニメ工房・スタジオジブリに飛び込んで、まがりなりにも1本の映画を作り上げた。その作品に関しては様々な毀誉褒貶があるけれど、それでもほぼ素人の監督がここまで作り込んだのか、と感心もした。しかも、偉大な原作を解体・再構築という荒技を行い、その上でその映画の冒頭に「父親殺し」をするほどのカオスを見せながら*1
 スタジオジブリという、日本を代表するアニメスタジオではあるが、意外と企画が途中で立ち消えることも多い。映画というものは、たとえ如何にベテランであっても、さまざまな理由から企画がなくなったり、制作が頓挫することもある。しかし、宮崎吾朗は、父親がノータッチのなか、監督としてスタッフをとりまとめ、完成させたのである。


 そんな宮崎吾朗が、「ゲド戦記」から5年後に、2作目を完成させた。

 

 企画・脚本は「殺そうとした」父親・宮崎駿。そのシナリオから絵コンテを起こしながら、彼は作家・宮崎駿への受容と父親が脚色した物語世界との対峙を迫られる。
 ここにあるのは、父親との「協力」なんて、甘っちょろいものではない。父親との、本当の意味での「対決」である。それは「ゲド戦記」のように自己世界に逃げ込むことは許されないことを意味する。


 えー。で。
 この映画は、宮崎駿が前から映画化を目論んでいた少女漫画が原作で、女系コミュニティを形成する下宿「コクリコ荘」と、文化系部活動の巣窟・カルチェラタンを舞台にした、一人の少年と一人の少女の初々しい恋の話ではあるのだが、その物語が変調するのは、この映画のもう一つの顔、二世代にわたる親子の物語という顔が現れたときである。
 物語のストーリーラインは、取り壊されることがきまっていたカルチェラタン存続か否かという話とともに、ヒロイン・海と、彼女の思い人・風間俊は同じ男を父親に持つ間柄ではないか、という疑惑が浮かび上がってくる、ミステリーへと移っていく。
 彼女が俊を好きになるきっかけとなった詩にうたわれた信号旗は、父を思って揚げていたものである。しかし、今、その父親が彼女の思いも寄らぬ側面を見せ、あまつさえ、思い人との関係を決定的に裂こうとしている、その原因になっているのである。


 父親の存在との対峙を迫られる少年少女の物語に、宮崎吾朗は驚くほど真摯に寄り添っていく。当然である。だって、彼はまさに今、父親との対峙のまっただ中にいるのである。

 宮崎吾朗の演出が父親と違うのは、彼が描く男性像が、どこか線が細く、行動もどこか繊細である。宮崎駿は危険を顧みずぐいぐい進んでいく力強い男性・ヒロインを愛しているが、宮崎吾朗のキャラクターは危険を前にすると、一瞬立ちすくむ。
 父親の描く俊はおそらく果断で、好きな人のためならば一瞬も悩むことなくあっという間に分厚い壁を突破しようとするだろう。しかし、宮崎吾朗の描く俊は、決断に至るまで長く逡巡の時間がある。


 鈴木敏夫プロデューサーによると、宮崎駿が見終えて開口一番言った感想が「俊はあんな女々しい男じゃない。あれじゃまるで吾朗だ!」と言いはなったというが、僕は宮崎吾朗の描いた俊が好きである。解決不能な現実を前に、ぼくら凡人はいくらでもたちすくむ。宮崎吾朗宮崎駿に比べれば、圧倒的に凡人の側にいる人間である。しかし、だからこそ見える風景もある。


 そしてこの映画は、父親が放った猛サーブに対して、宮崎吾朗が返した、渾身のレシーブだと思う。父親の存在に思い悩む俊という少年は、そして父の不在を受け入れながら黙々とコクリコ荘を切り盛りする海という少女は、まさに宮崎吾朗であらばこそ、よりリアルに描けたのではないだろうか。父親たちには父親たちの世界があり、子供達には子供達の「今」がある。その「今」を、吾朗監督が渾身の力で父親に叩きつけたように思う。大好き。(★★★★)

*1:殺せないながらも御大にあびせかけた一太刀が、「ポニョ」に大きな影響を与えたと思ってる