虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

物語のなかの「人生」

toshi202007-03-19






「じゃあもっとデカくいこうよ」「君の人生を賭けてみないかい?」柴田ヨクサルハチワンダイバー」より)



 人生を賭けるということはどういうことだろう。真剣に向き合うとは何か。真剣とは。
 それは生命だけでは足りない。もっともっと大きなものを賭けることを言う。人生。家族。恋人。財産。それらをあわせて、自らの手から離れてでも、手に入れたいものを、かけがえのないものを天秤にかけて、それらを失ってもイイと、それこそが物語における「真剣」。



 つい先日、放送が終了した「華麗なる一族」。数ある冬ドラマで結局俺が最後まで視聴したのはこれだけだった。この物語は、銀行家の父親と、鉄鋼への道を志した長男の骨肉の争いの果てに、父親が息子を死に至らしめる物語である。愛を得るためにもがきつづけた息子と、愛と憎しみの狭間で息子をつぶしに行った父親の、果て無き戦い。
 俺は父親と息子の骨肉の争い、というテーマの物語が好きだ。そこには「安住」とは無縁の、「醜い」、だが、「熱く」「真剣」な何かがある。自らに対する「保証」など、どこにもない。そして「帰る」場所もない、ガチンコの殴り合い。少年漫画の多くが「父親越え」「師匠越え」が最終的な究極の到達点になるのは、そのためだと、俺は思う。



 さて。
 宮崎駿監督の最新作が発表された。「崖の上のポニョ」という。まあ、作品については公開されるまでのたのしみにとっておくとして。


http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2007/03/20/03.html


 この記事の一節を引用する。


 宗介のモデルは宮崎監督の長男吾朗氏(40)。吾朗氏が昨年、「ゲド戦記」で映画監督デビューしたことを、宮崎監督は自分への反抗ととらえ、「こんなことになったのは吾朗が5歳の時、仕事ばかりで付き合っていなかったからだ。二度と吾朗みたいな子をつくらないために」と反省の気持ちを込めているという。


 端々から感じる、なんとも言えぬ愛憎。


 「ゲド戦記」を俺が嫌いになれないのは、そこに宮崎吾朗の「人生」そのものがあるように感じたからだ。「父親殺し」という反抗の意志。そしてその魂の彷徨。
 観客にとってはどうでもいいものかもしれない。拙い。幼い。知ったことではない。世間的にはくだらないものかもしれない。だけど、だけど、吾郎氏は、父親の懐に飛び込んだ上で「殺しに行った」。殺せなくてもいい、せめて一太刀。一太刀だけでも。「ゲド戦記」から感じる気迫。執念。
 そこには、人生を賭して、物語に賭けた、一人の青年の姿がある。そんな気がする。物語の中に己を、己の人生を残す。それが物語における「真剣」だ。「ゲド戦記」にはその「真剣」があった。


 世間から「不肖の息子」呼ばわりされるのを恐れずに、無謀にも放った巨匠への一太刀が、ついに届いた。その答えが「崖の上のポニョ」である。
 かくして。巨匠の「真剣」はついに息子に向けられた。刮目して待ちたい。