虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「借りぐらしのアリエッティ」

toshi202010-07-17

監督: 米林宏昌
企画・脚本: 宮崎駿
原作: メアリー・ノートン
脚本: 丹羽圭子
主題歌: セシル・コルベル


 本作は、人間たちに気付かれずに人間の家に住み着き、彼らからモノを「借り」て生活する小人たちと、その家に住む人間との交流と、そこから生まれる軋轢を描いた物語である。


 本作に重要な点がひとつ、あるとするなら。宮崎駿が「お話」だけを託した、初めての作品、という点であると思う。


 以前書いた「崖の上のポニョ」感想の中で、私は宮崎駿という人は「ストーリーテラー」というよりも「ワールドテラー」である、ということを書いた。


 自分の監督作ではない場合、宮崎駿は決して大きな逸脱をしない。骨法の枠内の中で物語を構築して、そこに寄り添うようなストーリーテリングを行う。
 今までの宮崎駿と大きく違うのは、絵コンテという、「演出」及び「世界構築」の部分まで、30代のアニメーターに託したことである。宮崎駿における物語とは、「物語」ともうひとつ、「世界そのもの」も自ら構築して明け渡すことだった。それは同じ脚本担当・で近藤喜文監督の「耳をすませば」でもそうだった。「耳をすませば」でさえ、絵コンテは宮崎監督なのである。近藤喜文監督にさえ(・・・だからこそ?とも言えるか?)、世界構築の部分までは手を出させず、自らが行っている。
 しかし、本作では、宮崎駿は「脚本」のみとしてクレジットされている。

 本作で、米林監督は、宮崎駿が物語に関わりながら、「絵コンテ」「ストーリーボード」という世界構築と、その世界をどう切り取るか、という部分までを託された、初めての監督、ということになる。


 ここ最近のジブリは、世代交代の意識をいよいよ強めつつある。以前、「天才の「継承」はあるか」というエントリでも触れたが、「ゲド戦記」は脱・宮崎駿ジブリ、というものを初めて意識した作品となった。今思うと、鈴木プロデューサーが宮崎駿とのなかに亀裂を産んでまで、「ゲド戦記」という虎の子を宮崎吾朗に託した理由としても、かなり明快だと思う。宮崎駿なしでも、ジブリは一本の映画を作れる、とスタジオ内に示すことが重要だった。
 「ゲド戦記」が決して外で評価されたわけではないことは、鈴木敏夫は承知しているはずである。しかし、それでもジブリには「宮崎吾朗」という風を外から入れる必要があった。


 米林宏昌、という青年が「ジブリ作品」というブランドを背負い、一本の映画を作り上げる。しかも宮崎駿の絵コンテという、「宮崎駿の世界」なしで。それはまさに、新たなジブリの中での「冒険」である。今まで、何度も頓挫してきた試みである。しかし、「ゲド戦記」を通過してきた今なら、それが出来る。米林監督の肩を押したのも、その一点があったろう、と私は邪推する。



 さて。この映画の面白いところは、「脚本」宮崎駿の目線と、「監督」米林宏昌の目線の違いである。
 宮崎駿という作家は、少年と少女の出会いに、一つ、「旧い文化と新しい文化」の交流をにじませる。本作においていえば、「足らないものだけを世界から借りる」という思想を実践する、「足るを知る」文化を生きる少女がアリエッテイ、基本的に物質的にも経済的にも満ち足りていながら、身体は弱く自らの死に達観している、という翔という少年は、「新しい文化」の代表なのだろうと思う。宮崎駿は「旧い世代」の人間である、という自覚があるし、脚本の目線は「アリエッティ」という少女の目線に近いのだろう。自分たちのような人間が少数派になりつつあることを、小人たちの境遇におさめている。おそらく自分が監督するなら、という想定で描かれたであろう「お話」はアリエッティという目線であらばこそ、の物語であろう。
 しかし、米林監督はどうか。おそらく彼が己を仮託したのは「翔」という少年、もしくは「人間」の側だったのではないか。

 たとえばアリエッティが父親と「借り」へと出かけるシークエンスの数々は、どこか「ゲーム」的である。「ゼルダの伝説」や「ICO」「ワンダと巨像」などの、優れたアクションRPGの演出を彷彿とさせる世界の切り取り方をする。どこか人間が小人の冒険を「俯瞰」するようなカットが多い。宮崎駿の場合、常にアリエッティ本人、もしくはアリエッティの目線に寄り添うように世界を切り取るはずなのだが、米林監督は人間の世界の中にまぎれこんだ「小人たち」という体でアリエッティたちを追う。
 その「借り」の途中で、少年とアリエッティは出会うわけだが、面白かったのは、アリエッティと父親がちり紙を「借り」ようと二人でひっぱってる最中に、アリエッテイは少年と目が合ってしまう場面。「げっ」と思って隠れるアリエッティだが、後ろの灯りからすっとアリエッティの影が映る。
 アリエッティは借りの時の格好はタイトなワンピースで、影には身体のシルエットがくっきりと浮き上がり、かなりエロいのである。これはちょっと、ジブリ映画ではあまり感じたことのないなまめかしさでどきっとしたのだが、つまりこれは「翔」目線ゆえのエロさ、だとも思った。


 そして、翔とアリエッテイが共闘する場面が、ひとつのクライマックスなのだが、それらの多くは「翔」の目線でコンテが切られている。


 宮崎駿の方からしてみたら、「人間」の方が「異化されるべき存在」であり、「小人達」の方がまっとうである、というカタチに世界を切り取るであろう。しかし、米林監督はアリエッティという少女が、自分たちの世界にまぎれこんだ「異物」として見てしまう。そして、自分よりも小さな「異物」だからこそ、身体の弱い翔は保護欲を感じるのである。その「異物」を救う「翔」の目線で、世界を切り取っている。
 この物語のクライマックスがクライマックスたり得るのは、「母」を「少年」とともに「ニンゲン」から救う、という「アリエッティ」目線で世界を切り取った場合であり、「翔」目線で切り取った場合、それは「翔」という青年が、屋敷の中にいる「異物達」を救った話、として機能してしまう。


 この映画に物足りなさを感じる人がいるとしたら、宮崎監督と米林監督の、「世界」の切り取り方の差異にこそ、あるのではないか、と思う。巨大な少年と一人の少女の、ひと夏の冒険が、まるで病身の少年が自分の屋敷にまぎれこんだ「小人の少女」のためになんとかがんばった話、になってしまった感があるのはそのためなのではないか、と思った。
 しかし、それこそが、米林監督からみた、「借りぐらしのアリエッティ」という物語なのである。そのことを示したのは、ジブリにとって大事なことである。宮崎駿が提示した物語のラストが、「旧い世代」が新天地を求め、旅立つラストでありながら、映画は「新しい世代」が、そこから去る「旧い世代」を見送るラストとして機能しているのも面白い点である。


 新しい世代と旧い世代。物語や、技術的な面で受け継いだモノを発揮しつつ、新しい目線で世界を創り、切り取ることが出来た、はじめてのジブリ映画ではないか、と思った。それゆえの欠点がありつつも、新しい風がジブリに吹いていることを実感させる映画となったと思う。(★★★)