虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「崖の上のポニョ」

toshi202008-07-19

原作・脚本・監督: 宮崎 駿


 「アニメのしょげんに立ち返る。」


 本作についての合同会見で宮崎駿はこういった。


 しょげんってナンだ?。諸元でもない。緒言でもない。おそらくは初源のことなのだと思う。この「初源」が「ポニョ」を語る上でキーワードになる。気がする。


 まず。ポニョの初源はどこか。
 まずこの映画の企画の発端は中川李枝子のアニメ化企画だと宮崎駿はラジオのインタビューで述懐している。作者の中川李枝子と宮崎駿の接点は、「そらいろのたね」という短編で宮崎駿がアニメ化している。このアニメが「宮崎駿らしくない点」は原作を壊していないことだ。非常に忠実に作っている。宮崎駿ストーリーテラーではなく「ワールドテラー」なので、基本的に世界そのものを語り直す人だ。「魔女宅」にしても「ハウル」にしてもテレビシリーズの「コナン」「ホームズ」にしても、「世界観を壊して一から作り直す」人で、そんな面倒くさいことをする彼の本質からすると、非常にシンプルなアニメだった。
 中川李枝子の世界観を宮崎監督は、「ありえないけれど、理屈がとおってる」という見方をしている。つまり「普通ならこれおかしいんじゃね?と思うディテール」を踏み越えて物語るにも関わらず、でも最終的に見るとストーリーに理屈が通ってる。ゆえに壊せない。宮崎駿が今回ディテールを越えて押し通る理由は、この「中川李枝子」への強烈な畏怖がスタートラインにある。


 そしてもうひとつの「初源」がある。2年前に起こった事件。息子・宮崎吾郎監督の「ゲド戦記」が完成し、それを見たことだ。ここで宮崎駿は「殺される」。
 宮崎吾郎版「ゲド戦記」で重要なモチーフはこの「父王を刺し殺す」シーンであり、ストーリーラインはその後の王子の精神的な彷徨である。この父王のイメージは、誰あろう宮崎駿以外には考えられない。このとき、宮崎駿はショックを受けたに違いない。今回の」新作が発表された際、宮崎駿のコメントとして「吾郎のような子供を作らないために」というフレーズが入ったことで、当時ちょっとした話題になった。


 父王は死んだのか。刺された後の描写は為されていない。ただ、アニメーションという父の土俵で、しかも父の敬愛する世界で、父を殺しに来た息子。
 ここで宮崎駿は、息子と同じ土俵に上がって相対することを決断したのだ、と思う。「ゲド戦記」は真っ向からの「手描きアニメーション」であった。だったら、おなじ「全編手描き」で、自分が不在だったころの、家を現代に置き換えて語り直してやる!
 そんなアニメ監督として、なにより父としてのプライドと、「ハウル」で「子供向け映画からの逸脱」に対して忸怩たる思いもあり、そのせいで瀬戸内海の海辺にある崖の上の家に2ヶ月の間、隠遁していたのも手伝って、世界のイメージが浮かんでくる。


 5歳の宗介は貨物船の船長でなかなか帰らない父・耕一を待つ母・リサと生活をしており、宗介は母の勤める老人養護施設*1に併設された保育園*2に通っている。宗介の住む現実世界は「宮崎駿が崖の上の家からジブリに通う」イメージに近いのだろう。


 そんな宗介くんはある日、瓶にひっかかった人面魚の女の子「ポニョ」に出会う。ポニョは人間がわからない。だから顔に水をかけることで人間を試す。そして決して嫌がらなかった宗介に最大限の好意を持ち、宗介も「きみをまもってあげる!」と庇護欲全開で宣言するのだが、結局ポニョは父親のフジモトに奪い返されてしまう。


 さて。


 宮崎駿のアニメーション監督としての「初源」。それは言うまでもなく「高畑勲」である。
 高畑勲は日常の所作の中にすらドラマ性を保たせる、という意味では天才的な作家だが、この人の特長はもうひとつ。絵を描かない。高畑勲の絵コンテは基本的に「○に目がちょんちょん」で人物が描かれる。宮崎駿テレビアニメーションの世界で高畑勲と組んだとき任されたのが「場面設計・画面構成」のふたつである。
 ここで、宮崎駿はひたすら「リアリティあふれる世界観の構築」をなんども迫られる。人物の立ち位置、動き、部屋の家具の配置、家の形、町並みから、森や山などの配置までを絵コンテを見てひたすら作り出す日常があった。ここに、宮崎駿の「自らが生み出した世界そのもので物語る」という天才の萌芽が生まれ始める。
 本作では、その力をさらに流動化させる試みを行っている。「生きている世界」の創出である。


 この映画が面白いのは、現実世界とファンタジーが「並列」していることである。「共存」ではない。魔法は「ありうべからざる力」とされている現代社会と「魔法」を使う男を並列させている。彼らはいままで決して交じることがなかったが、フジモトという「人間を憎む元人間」の存在と、彼の娘のポニョこと「ブリュンヒルデ」が、その「結ばれていなかった世界」をつないでしまう。
 宮崎駿はいままで現実世界と異世界をつなぐ場合、非常に慎重にやってきた。それが今回は世界そのものが生き物ののように動き出す。フジモトが扱う魔法が「海を生き物として制御する」魔法であるらしい、ということを序盤で示し、だがフジモトはうっかりその力をグランマンマーレの血を受け継ぐポニョに奪われてしまう。世界はフジモトの悪意*3と偉大なる海の力を受け継いだポニョによって荒れ狂っていく。


 地球は生きている。宮崎駿がポニョに託したのは、その「生きている世界(地球)の凶暴なまでの力強さ」そのものである。時に凶暴で時に優しい。宗介は言ってみれば、そんな危険な娘を受容することができるのか、ということである。これが大人ならば多分受け入れない。だが、5歳ならばどうか。「そんな自然=ポニョ」も「スキ!」と言えてしまうのではないか。
 ここで、「え、なにいってんの?」と誰もが思うだろう。俺もそう思う。だが、中川李枝子の世界観を志向する宮崎駿は、ここで理屈を越えようと試みる。地震津波もなにもかも、悲惨なことであるとか言う前に生きているポニョが暴れたと思ってみたらどうだろう、というちょっと・・・いやかなり乱暴な問いかけである。そんくらいの強さを保たないと、ちょっとしたことで「ネガティブ」に世界を見るウチの子みたいになっちゃうぞ、ということであろう。それじゃ未来は「悲惨」しか残らない。もっとポジティブに世界を受け入れたらいい!老人らしい乱暴な意見だが、この辺は息子の作品のネガティブすぎる世界の見方への強烈な異議ともとれる。


 母親もいない、すべてが海に押し流された世界にふたりは置き去りにされる。魔法の力を徐々に失い、ひとりの幼女となっていくポニョと宗介は、ポニョ自身が引き起こした世界の有りようと、グランマンマーレが仕掛けた「試練」を引き受けることになる。
 

 それは「ポニョ」の引き起こした「結果」を受け入れて、母親の元へと帰ること。父親なんてなあ、どうせ死んだようなもんだから関係ねえーよ。殺す意味なんかなんもねえーよ。強く生きてりゃいいのさ。いい意味でいい加減で、乱暴なメッセージこそ、父を「殺した」息子と、保育園に通う子供たちのためのメッセージなのだろう。


 手描きアニメーションを志向し、「千と千尋の神隠し」が2時間5分で原画枚数11万枚に対して。1時間40分で17万枚という強烈な密度のアニメーションのコンテを切っていく宮崎駿が返っていったのが、高畑勲と組んだ「初源」の時代なのだろうと思う。素朴なアニメートに腐心し、高畑勲の志向に寄り添いながら場面を紡いでいった、あの時代。

 宮崎吾郎は現在40歳。彼が5歳だったのは35年前。1973年。その年に出来た作品が「パンダコパンダ/雨ふりサーカス」。ポニョの力が世界を飲み込んだ後、無意識のうちに高畑勲と組んで、日常の所作すら慈しむ素朴なアニメートを作り続けた時代へと帰っていった宮崎駿。この映画はまさに、「初源」へと返る旅だったのだろう。すべての初源である母の下へと向かう宗介とポニョのように。(★★★★★)*4

*1:これスタジオジブリのイメージだと思うw。ジジイだらけかババアだらけかの違いだけで。足腰たたねえのに口うるせえババあ(吉行和子)=自分?

*2:これはジブリが経営する社員用保育園そのもの

*3:この辺はムスカカオナシなどに仮託してきた「負の自分」のイメージだろう

*4:★数は気にしないでいただきたい。合う合わないが激しいのは相変わらず。ジブリが嫌い、もしくは「もののけ姫」以降の作品が嫌いなら★3つ以下でも結構。