虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ぐるりのこと。」

toshi202008-07-20

監督・脚本・原作:橋口亮輔


 ひとのこころというのはわからない。



 現代というのは様々な価値観のるつぼであり、そこに自分の価値観がいくつも衝突していく中で、少しずつこちらが衝撃を受けすぎないようにしていかないと、緩衝できずにこころが少しずつ傷ついていく。
 この映画は美大出のだらしない性格の夫と、しっかり者だけどどこか生真面目すぎて型にはまりやすい妻、という夫婦の10年間を描いているのだが、この映画は悲劇そのものは描かずに、その悲劇によって妻のこころが少しずつこわれていく過程と、それに相対し続ける夫、というかたちになっていくのだが。


 僕の近しいひとにもこころを壊しかけて精神病院に入った人がいて、今はその「彼」は元気にやっているけれど、彼がこわれかけている時ぼくは、彼を抱きとめきれなかった。そういうしこりや後悔が、俺の中にはある。正直、人がこわれていくのを見るのはあまりにもこわいことだ。しなやかな強さがなければやっていけない。俺は、そんな自分からすると、ひどく胸をしめつけられる思いだった。俺にまだ、そういう強さがあるのかはわからない。そしてそれと向き合うことは、ことほど難しいことはない。だが、主人公である夫は、それを淡々と実行する。それが夫婦の絆の強さなのか、夫の元来の強さなのかは、わからない。
 この映画の白眉は、その夫が法廷画家という職業に就かせたことだ。彼は93年から02年までの10年の間、その職業に就き、その裁判の中で、時代を代表する「壊れた」人々を見つめ続ける。こころが壊れて、ある一方向に突き抜けてしまい、その法廷の被告人たちはそこにいる。そんな人々の所作や言動を、この映画は淡々と映し出し、活写していく。
 それら外向きに壊れてしまった人々と、現在進行形で内向きに壊れてゆく妻や彼らの周りの人々とのコントラストこそが、この映画の肉体を作っている。


 形を気にして、その形通りにならないストレスから、仕事を辞め、家の中でふさぎ込んでゆく妻。それでも外では時代が流れている。夫の側から見た「外の時間」と妻の側が抱える「内なる時間」が見事にリンクしているからこそ、我々はリリー・フランキーの朴訥としたたたずまいの中に。人間の中にある、真の強さを感じるのである。
 肉体的に追い詰められてるけど精神的には全然タフなひと、強そうに見えてその弱さがにじみ出る人、強がっていても実は困窮してる人。夫婦の周りにいる人々にも様々な生き方があり、事情があり、「こころ」がある。かたちにこだわっていた妻が、やがてその「かたち」というなの精神的な檻からゆっくりと解き放たれ、長い時間の中で混迷から脱出したひとなりの強さの象徴として、ひとつのかたちに結実させるラスト。そのありように自分は、するっと泣かされてしまった。淡々としながらも力強い筆致の物語の中に、きっちりとしたカタルシスを残した傑作と思います。(★★★★★)