虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「クライマーズ・ハイ」

toshi202008-07-05

監督:原田眞人
脚本:加藤正人/成島出/原田眞人
原作:横山秀夫


 新聞業界が斜陽といわれて久しい。確かに、スピードも段違いに早く、制約もないネットというメディアは新聞というジャンルにとっての脅威だ。


 自分はその斜陽業界に片足をつっこんで8年以上になる。新聞社そのものではないが、新聞と深く関わっていることで見えてくるのは、新聞は制約や約束事がかなり多いということである。ネットだけを愛好し新聞の購読をやめてしまった人にはぴんとこないかもしれないが、時間、形態、広告との折り合い、多くの記事を如何に見やすくキレイにレイアウトするか、わかりやすく伝わりやすい見出しをつくるか、その上で情報にはより精度が求められる。広告を預かっている以上、飛ばし記事を連発するわけにもいかない。さらに人間関係による軋轢も考慮しなければならない。
 画像のプロ、文章を書くプロ、レイアウトのプロ、広告の営業、販売局、輪転部、さまざまな人間とのバランスを取りつつタイムリミットの中でより品質の高いものを求め続ける。そうでなければ、新聞は作れない。


 この映画の主人公、遊軍記者・悠木(堤真一)は突然それらを統括する立場に放り込まれる。しかも、時は1985年。新聞業界はネットの脅威にさらされていない。まさに新聞記者が花形職業だった時代。一地方新聞社とはいえ、飛ばし記事を書くわけにはいかない。悠木の口癖が「チェック、ダブルチェック」。念には念の「裏取り」である。彼らに間違いは許されない。


 この映画の脚本について、様々な傷があるのはわかる。だが、この映画が圧倒的に正しい、と俺が言えるのは、新聞の作られるプロセス、さらにそれを作る人間たちに対する敬意と愛情のこもった描写と、新聞に関わる人々の「うねり」にドラマの本質を置いたことだ。しかも、今のようにコンピュータ校了やPS版印刷が導入されてない。ましてや地方新聞社である。古い機械をしぶとく使い続けている可能性だってある*1。旧型輪転ならばそれだけ時間を食う。輪転機が止まることだってしょっちゅうあるだろう。新聞印刷もスピードが命だが、今ほど技術が上がってない時代なのだ。最終降版1時にしないと、販売店に行き届く量の新聞を刷り終えきらない、というのも納得である(今の最終降版はもっと遅い)。
 この映画の脚本は、そういった事情すらきっちりいれてくる。広告なくして薄利多売体制は維持できない。それを知りながら、悠木は広告を「外して」その面に記事を載せる行動に出るシーンがある。この行動、本来なら業界ではアリエナイ暴挙である。広告は信頼関係で成り立っている。ましてや地方新聞社の広告は地元企業との密接な関係がある分、そのような挙に出れば広告不足の危機だって十分にあり得るのだ。
 だから、悠木は広告局の人間と殴り合いの喧嘩にまで発展するのを承知で、広告を外した。その暴挙が許されなおかつリアリティを持つのはなぜか。地元で、未曾有の大事故が起きていたからだ。


 この映画の本質は、日航ジャンボ墜落事故なのではなく、普段は未曾有の事件を追わない連中が、全力疾走で山を駆け上がっていく日々を描いた「記者たち」のドラマにある。


 この映画の撮り方がすげえのは、役者たちはそれぞれがてんでばらばらにそれぞれの「仕事」に没頭していることだ。彼らひとりひとりが自分の仕事で手一杯であり、その制約の中で、それぞれが「結果」を残そうと必死になっている。そういう演技をさせながら、編集によってストーリーとして成立させて、なおかつきちんと映画の体を為していることがまず驚異的。こういう撮り方は日本人監督がかなり苦手とするところだが、原田監督はそれをかなり高い完成度で実現してる。


 おそらくだが、この映画の舞台である新聞社編集局に無駄な人間はいない。必要最低限の人員で回している。人件費もコストもおそらくかなり渋く抑えている。ましてや彼らには、「大事件を追うノウハウや技術」が圧倒的に不足している。なにせ現場の状況の雑感を伝える無線機すら導入していない。記者は最低限な中でひたすら現場をかけずり回る羽目になる。その辺の対策は大新聞にはかなわない。
 そういう状況で必死に抗い続けたとしても、それが「成果」となって現れるとは限らない。彼らの抵抗は時に、いとも簡単ににぎりつぶされる。これもまた「新聞」の厳しさがよく表れていた。


 一地方新聞社が抱えるにはあまりにも分を越えた大状況でも、悠木がここ一番で「日航ジャンボ」にこだわり続ける理由を、この映画は詳らかにしていく・・・のだが。
 正直に言えば、そこはあえて明かさないで、匂わす程度に留めていった方が良かった。悠木のプライベートなエピソードが映画を散漫にしかさせてなかった気がするし、この映画の本質は、「限られた中で新聞が伝えられることとはなにか」であるはずだ。そのことを信頼できたなら、もっとソリッドに出来たはずだし、より少ない上映時間でより緊密なドラマが実現できたと思う。あと、事故現場を再現的に入れていたが、あれは出さない方が良かったな。現場をかけずり回った佐山(堺雅人)たちの「雑感記事」の生々しさに現場の画が負けている。

 それでもなお、この映画が素晴らしいのは、この映画で主人公が「敗北」を認めることが、彼なりの矜持の示し方だったことである。あそこで「負ける」のは娯楽映画としてはダメかもしれないが、ドラマとしてはあれが正しい。だって、この映画はそういう映画だから。プロフェッショナルがみずからの生き方を、伝えることを通して見つめる映画だからだ。
 そしてそれが、会社という「父性」からの脱却でもあるからだ。


 あの日あのとき。新聞という業界に誇りを持っていた男たちが味わった苦闘と挫折の日々を、決して「叙情」に流すことなく、リアリズム演出に徹して描ききったこの映画に、僕は感謝の念を抑えきれずにいる。新聞斜陽の時代だからこそ、ありがたいことだと、強く思う。(★★★★)

*1:なにせ輪転機の更新は億単位の出費だから。