虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」

toshi202007-09-13

総監督: 庵野秀明
監督: 摩砂雪 / 鶴巻和哉
原作・脚本: 庵野秀明


「さよならは言わないよ。はじめからさよならの予感に満ちた家だったんだもの!」(四方田犬丸。「御先祖様万々歳!!」より)



 
 テレビアニメと映画の決定的な違いは、繰り返すか繰り返さないかだと思う。テレビアニメはビデオの普及から、繰り返し見ることで、物語の強度を高める。映画は厳密に言えば、たった一度の出会いで、どれだけ強烈なインパクトを残すかで決まる。

 世界が繰り返す。これは、アニメオタクにとってみれば至極日常である。

 いや、エヴァだけではなく。古典、と呼ばれるものは基本的に何度も再生されることで強度を増していく。落語しかり、演劇しかり、音楽しかり。本作の導入は古典落語みたいなものである。



 繰り返される物語。決まり切った構図。演技。本作は、同じキャストで、エヴァの再演。トレースから始まる。



 この映画は何度となく「新世紀エヴァンゲリオン」を見た人に向けられた映画だと思う。つまり何度も見た風景の再現をあえて全力でこの映画はやっている。この映画は世界を書き換えようとしているのではない。この映画はかつての何度も繰り返してきた、視聴者→観客の見ている風景を否定しないながらも、新たな風景を見せる方向に変えようとしているに過ぎないと思った。


 再生、巻き戻し。再生、巻き戻し。変わらないセカイ、言葉、風景。だが、こんど再生されたセカイは何かがちがう。




 この映画の入り口でキレーにトレースしていきながら、徐々に世界をブレさせていく。変わらないはずの世界が徐々に違う方向へ、話がズレていく。この、なんとも言えぬ。奇妙な感覚。すでに物語は変わり始めている。
 今回、物語としては大筋で原作をなぞりながらも、ミサトとシンジの関係性が強調されていたと思う。思わせぶりな記号を廃し、語るべき物語の大胆な省略と追加によって、全く別の物語へと変貌する布石は、すでに打たれている。


 この繰り返しとその連鎖の終了を目論んできたのは、庵野秀明だけではない。宮崎駿も、押井守も、通ってきた道だ。
 宮崎駿にとっての「風の谷のナウシカ」、押井守にとっては「うる星やつら」。宮崎駿は厳密に言えば再演ではないが、劇場アニメ版で描ききれなかったナウシカと彼女の生きる世界の道行きを、原作版「ナウシカ」で描ききり、押井守は「ビューティフル・ドリーマー」でその繰り返される世界を「批評」してみせた上で、日常に迷い込んだ非日常的存在が家庭を崩壊させる裏「うる星」とも言える「御先祖様万々歳!!」で、繰り返されることのない非日常、「終わるべき物語」を描ききって見せた。


 さて、新たなる「再生」。再生され続ける「マトリックス」にゆがみが生じ始めた「エヴァンゲリオン」はどこへいくのだろうか。終わることなく再生され続け、消費され、記憶され続けたその物語。出来うるならば、その旅が、繰り返されることない「終着駅」へとたどり着くことを祈ってやまない。
 そしてそれこそが、庵野秀明のはじまりになるに違いないと、見ていて思い始めた。「破」から始まる(であろう)物語の更なる逸脱に期待する。(★★★)