虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」

toshi202009-07-05

総監督・企画・原作・脚本:庵野秀明
監督:摩砂雪鶴巻和哉
音楽:鷺巣詩郎


 言わずとしれたテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」を新たに3部作(または4部作)で語り直す「新劇場版」のシリーズ第2作。


ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」感想
http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20070913#p1


 前作の感想でボクはこう書いて締めた。

 さて、新たなる「再生」。再生され続ける「マトリックス」にゆがみが生じ始めた「エヴァンゲリオン」はどこへいくのだろうか。終わることなく再生され続け、消費され、記憶され続けたその物語。出来うるならば、その旅が、繰り返されることない「終着駅」へとたどり着くことを祈ってやまない。


 そしてそれこそが、庵野秀明のはじまりになるに違いないと、見ていて思い始めた。「破」から始まる(であろう)物語の更なる逸脱に期待する。


 で。この映画。いきなり逸脱から始まる。


 一人の「イレギュラー」が主人公・碇シンジと出会うとき、トラック25とトラック26の間を行ったり来たりしていたセカイは、新たなるトラック「27」へと移行する。
 ・・・というわけで、まあ、「新劇場版」は「序」の時点で「繰り返されたセカイが書き換えられる物語でなくてはいけない!(それ以外では意味がない!)」と主張してきた俺でさえ、ビックリした。完全に「同じ世界観」の「別の物語」へと移行していってる。
 


 うーん・・・と、ネタバレせずに書くのがムズカシイのだが、


 どこまで書いていっていいのかわかんないんだけど、今回の「ヱヴァ」は「娯楽映画」としての色が、さらに強まり、テレビ版のシンジが元来持っていた「ネガティブ」な一面すら、クライマックスへの「フック」として利用されている。


 しかも「序」より、さらに映画らしく。より高密度に。


 この映画にはクライマックスが2回あると思ってるんだけど、両方とも、思い出したのは本来水と油ほども違う感触の、「映画クレヨンしんちゃん」だった。


(以下、ややネタバレ気味のため注意。)






 一つ目が「アッパレ!戦国大合戦」、二つ目が「電撃!ブタのヒヅメ大作戦」*1。最後のクライマックスはシンジが、「救いのヒーロー」として覚醒したぶりぶりざえもんを彷彿とさせ、落涙しないまでも、大変に興奮した。まさか、「エヴァ」の映画版で「映画クレしん」を思い出すことになるとは思わなかった。つまりそのくらい、「娯楽映画」としてのストーリーテリングへと移行しているのだ。


MAD「エヴァ魂」


 ↑は、テレビアニメ版の碇シンジをアニメ「銀魂」の坂田銀時のセリフで吹き替えたMAD動画の後半部なんだけど、クライマックス辺りは、この動画の1:21目からのノリに近くなってるのは、さすがに腰が抜けた。ほんとに、こんな感じなの。
 あと重要なのは、シンジが確実にリア充への道(オイ)を邁進し始めたことで、アスカやレイがテレビ版などでは見せなかった表情を見せ始める。彼はモテ要素として「食事をかいがいしく作るマメな男」というスキルを獲得。順調にトモダチと仲を深め、山より高いプライドを持てあまし、孤独じゃないといけないと思い込もうとするアスカや、他人に壁を作り人間らしい反応を示さなかったレイの心をも溶かしていく・・・・って、さりげないけど、シンジの人間としての「ステージ」が確実に上がり始めている。
 そして、彼が作り上げていった人間関係が「セカイ」そのものに確実にポジティブな方向で、変容をもたらし始める。

 
 この「セカイ」の変容は12年という時を経た「庵野秀明」そのひとの変容であることは間違いなく、であるからこそ、リピートをやめて、みずからの「世界観」の投影たる「新世紀エヴァンゲリオン」を新たなる世界へとリライトしていこうとしている。
 それは、庵野秀明の「12年前のセカイ」を深く愛する人ほど辛い映画かもしれず、しかし、世紀をまたいで確実に変わりゆく世界を生き抜こうとする新たな物語へと向かおうとする意志を、作り手達は模索し、生み出そうとしているのだと思った。


 「終わる世界の、繰り返される物語」から、「終わらない世界の、物語の終焉」へ。
 観客のシリーズの結末への期待を加速させつつ、更なる世界の変容の予兆を秘めた本作。そこからの更なる逸脱と、このシリーズが「娯楽アニメ映画」の傑作として終えることを、「急」から「Q」に名称変更された次回作「ゼーレの復讐」(違う)と、同時公開の名称未定「?」によって為されることを期待する。(★★★★)

*1:しかもこれ、三石琴乃が子持ちヒロイン「お色気」役で出演してる・・・。