監督:庵野秀明(総監督)/樋口真嗣(監督・特技監督)
脚本:庵野秀明
この映画が公開された日、ボクは日本にいなかった。
先のエントリに書いたとおり、「別の映画」を目当てに台湾にいたからである。
携帯電話を切り、ネットにもあまりつながない状況で台北で映画を見たり、屋台で飯食ったりして、ホテルに戻ってきてWi-FiにつないでiPadでTwitterのタイムラインをながめたら、そこには、この映画に熱狂する書き込みがずらっと並んでいた。
正直な事を言えば、この時からすでにこの熱狂の火種は急速に燃えさかっていた。
はっきり言えば。この公開直後から数日、Twitterやネットに吹き荒れた熱狂の熱は異国にいたからこそ、異様に気圧されるものがあった。
台湾ではこの映画の公開はまだ先で、しかも日本とはまだ違う映画が映画館を独占している状況であったから、完全に「シンゴジラ」については「いずれ見ようかな」くらいのテンションで台湾に向かった自分としてはただただ面食らうばかりの状態であったし、異国の中では日本の情報はほぼシャットダウン状態であったから、Twitterとネットの情報が自分の中の「日本」を知る数少ない手がかりなのである。その手がかりの多くを「シン・ゴジラ」がとんでもないことになっていて、人々を熱狂させている「ようだ」という情報が覆ってるのである。そういう情報の断片が異様に自分の中で大きくなっていた。
Twitterをつなげば、そこには常に熱い書き込みがタイムラインを覆っている状況は、自分の中に「シン・ゴジラ」を「大きく」するには十分だった。
帰国してから1日置いて2日後には自分はこの「シンゴジ」を見に行っている。しかし、あんまり期待していないから情報はほとんどない。
見た。
その時のぼくの感情を一言で言えば、「苛立ち」であった。ボクは見終わった後、その感情をTwitterで一気にはき出した。
結果としては、結構ウザがられた気がする(笑)。長年フォロワーだった人があからさまに切ってきたりと言うこともあった。
ひとつだけはっきり言っておくべきことがある。この映画、ぼくにとって「つまらなかった」わけではない。
面白かった。
面白かったと思うのだ。しかし、ボクに納得できなかったのは、あの異国から異様に見えたあの熱の正体が「これ」なのか、という素朴な、そして率直な疑問ではあった。
ボクが何故イラだったのかと言えば、この映画の構造にある。
ボクが映画館に行く道すがら、目にしたポスターは「現実VS.虚構」という惹句のポスターで、「ふうむ」と思いながら見始めたのだが、見始めて気づいたことは、まずこの映画が実際は「虚構 VS. 虚構」であることである。
「ゴジラ」という「圧倒的虚構としての災害」に対して、「日本」が現実としてどう立ち回るか、という構図。ではある。だが、そこで描かれているのは「現実」のように振る舞う「作り手が考える虚構」であり、その「現実」のように見せている「虚構」こそが、「ゴジラ」という「虚構」に拮抗すべき「虚構」である。
この映画の「絵図面」というものをどう考えるか、と言うとつまり「会議」に次ぐ「会議」によって、日本は「ゴジラ」という「虚構」をどうするか。それを決定せねばならない。この映画は簡単に言えばそういうことだ。
だから、この映画はこれ以上無くシンプルだ。わかりやすいし、明確である。しかし、ボクがいらだったのは、前半部の「会議」の場面に集中した。
この「会議」の場面が「退屈」だったことである。
さて。このボクのいらだちに疑問がある人もいるだろう。「会議」が退屈なのは当たり前じゃんか。と。むしろ「退屈」なのは作り手も折り込み済みだろうと。
だが。ボクの考えではそうではない。話の流れとしてはそうかもしれない。だが。問題は演出の質だ。「退屈な会議」を表現するのに演出まで退屈にしていることにボクはイラだっている。
カットの編集、台詞の抑揚、劇判の付け方。この映画は理想を突き詰めれば「退屈な会議」の場面の演出こそが肝要だった。そこまで思っているのである。
もっと面白くできたろう。あの「監督」なら。そう「思ってしまった」のだ。
ボクがシンゴジを見るにあたって不幸だったのは、台湾にいることでネット上に拡散していた「シンゴジ」の熱を過剰に感じてしまった事。そして、もう一つ。ボクは庵野秀明監督を「生」で見たことがあるのだが、問題はその場所だった。
それは池袋・新文芸坐である。
「岡本喜八監督」の「激動の昭和史 沖縄決戦」の追悼特集上映の後に開かれたトークショウだったことである。それを通じてボクは知っていた。庵野秀明監督が「岡本喜八」監督の大ファンであることを。
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だから当然、なんの前情報も入れてないのに、映画の前半で気づいてしまう。すでに多くの人が指摘しているように、この映画は「日本のいちばん長い日」の会議シーンの叩き台にしているということに。カット割りからテロップの出し方から、多くのエッセンスを抜き出している。
だとするならば。この映画の、庵野秀明が考えていた隠された構図とは。
だとするならば。会議のシーンは明らかに庵野秀明の敗北である。
だって「会議」シーンが「退屈」だから。思い切り演出を寄せた。その上で絵図面上では「退屈な会議」を「如何に魅力的に撮るか」という虚構と、「圧倒的災害としてのゴジラ」という虚構が、がっつりとぶつかり合うべきなのである。ところが、結果としては演出は学芸会のような棒読み台詞の応酬となった。
ところが。このこれが映画の面白いところであるが。この「退屈になってしまった演出」こそが、「作り手の狙い」と賞賛されている所になっている。
自分はTwitterでこのように書いた。
『「シン・ゴジラ」は、俺としては庵野秀明の目指していた高みはこんなもんじゃないと思っている。だからこそ見ている間常に苛立ちを作品に対して感じていたけど、どうなんだろうな。もっと上へ行けたんじゃないかって思ったらいかんのだろうか。シンゴジはこんなもんじゃないはずだ。』
『「シン・ゴジラ」の目指した「設計図」に関して言えばあれでいいんだと思う。今出せる全てを出した。でも、苛立ちを感じるのは会議室の場面なんだよ。会議だってエンターテイメントなんだ。面白い会議映画なんていくらでもあるし、会議は本来もっと躍動するものだ。セリフと画が生きてないのは何故だ。』
『「シン・ゴジラ」に苛立ちを感じているのは「つまらない」からじゃない。方向性は間違ってないとは思ってるし、この作品としては正しい。しかし、本来ならもっと本気で会議室場面を作り込むべきところをどうもおろそかになってるように見えてしまう。こういう事言ってもあんまり共感されないだろうが。』
『そういう意味では、今のシンゴジは批評的にも「甘やかされすぎてる」気はするし、その甘やかしは作り手の志をあんまり理解できてないのではないかって思うのだ。岡本喜八の特集上映で庵野秀明の語りを生で聞いている俺からすれば、彼は本作で(岡本)喜八(監督)の後継者たろうとした部分もあったはずなのだ。』
『しかし会議室の場面は喜八(監督)のカッティングには遠く及ばない退屈さだ。演出をあえて寄せていったにも関わらずだ。だとすれば、そこは庵野秀明にとって大きな敗北を感じている部分なはずだ。ところが世間はほめそやす。そこに大きな乖離がある気がするのだ。』
(注:一部、筆者追記あり)
このつぶやきはわりと好意的な形でのリアクションが多かったのだが、その中で一部では『「その退屈さ」こそが狙いなのだ』という指摘があった。
だが、その指摘はボクは違うと思うのだ。なぜなら、庵野秀明監督はゴジラという「虚構」と同じか、それ以上に「岡本喜八」という監督をリスペクトしているからである。そうでなければ今回のような映画の中のとある「役」になぜ「岡本喜八」監督を選んだのか。それがわからないではないか。
ゴジラと正対できるのは、「岡本喜八」監督の映画史において長く語らえるカッティング演出による「実写的虚構」だと踏んだからに他ならない。だからこそ、演出も「早口」で「カット割り」を多用し、テロップの出し方ひとつまで寄せたのだ。
しかし届かなかった。
だが。
それこそがこの映画が、リアルだと評価されることにつながっているのであり、そしてこの熱狂を下支えしている。
ボクは岡本喜八監督が大好きなのだ。ゴジラなどよりもよっぽど。だからこそ、ボクにとってはこの映画は、「理想の出来に届かなかった映画」として記憶される。
だが、多くの人にとってはこの映画の「かたち」こそが「理想型」として語られていくことになる。岡本喜八ファンとしての庵野秀明が例え「敗北感」に囚われていたとしてもだ。
もちろんそうでない可能性もあるが、庵野秀明というクリエイターが果たしてそれで「ヨシ」としただろうか。
ボクは多分ゴジラよりも「岡本喜八」の方が大事なのだ。それはボクが持っている「信仰」のようなものだ。「ゴジラ」を信ずるか。「岡本喜八」を信ずるか。
多くの人は「ゴジラ」を取るのだろう。その中でボクは「岡本喜八」を取る数少ない人間なのだ。
だからこそ、ボクは映画のデキは認めつつも、いまだにシンゴジの熱狂に対して、「苛立ち」を胸に秘めながら現在に至っているのである。それは非常に「個人的」で。でも大切な「何か」なのである。私は「シン・ゴジラ」で自分の「シン仰」を問われたことになる。