虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「宮本武蔵 双剣に馳せる夢」

toshi202009-07-02

監督:西久保瑞穂
原案・脚本:押井守
キャラクターデザイン:中澤一登
浪曲国本武春


 押井守脚本による「宮本武蔵」についての、自分なりの解釈を込めたアニメ風ドキュメンタリーという趣の映画なんだが・・・。


 押井守神山健治が監督したら、もう少し違うニュアンスの映画になっていたのではないか、と思う。


「武蔵を巡る虚構を廃し、その背後にある真実の姿を描き出すこと。それが私の研究テーマであり、この映画の主題です。」


 ・・・とこの映画の解説役を担う、「犬飼喜一(仮)」というキャラクターは言うわけですが。この「大前提」そのものが、実はまやかしである、とボクは思うんだが、西久保監督はそれを大まじめに受け取っちゃったんじゃないのか?
 人々の「認識」の上で理解される「歴史」というものが、一つの事象を外から眺めた「真実」でありながら、同時に虚構である・・・という自明を元に、自分の考える宮本武蔵の実像を披瀝する、という映画を、押井守がそもそも志向していたのか、と言われると、違うんじゃないか、と思う。そもそもこの映画の宮本武蔵という「肉体」は吉川ブンガクのそれの延長線上にあり、つまり、この映画は歴史の真実を追うモノではなく、「虚構」を別の切り口で新たなる「虚構」を生み出そうとしたのが、この映画の真の主題だと思う。


 だって、この宮本武蔵はほとんど「パト2」の柘植じゃんかなあ−。


 この映画は押井流「テキストの暴力」で、宮本武蔵に武士道などというものはなく、あるのは関ヶ原でのトラウマと、兵法者に固執する姿だけである、とするこの映画なのだが、剣客としての生き様については一切寄り添わずに、吉川ブンガクからイメージされた名場面を切り貼りしてその真偽を一切検証することをしないのは、そもそもその「虚構の宮本武蔵」を実はなにも否定しておらず、むしろその「虚像」が前提となって「宮本武蔵」という人物が語られているわけで、本来ならば、もっと「宮本武蔵」の人生そのものに寄り添う必要がありながら、「ヨーロッパ」やら「中国」やらの騎馬民族の有り様についてのウンチクを語り倒す辺り、実はかなり確信的に「この話はテキトーにお聞きください」という類の、「立喰師列伝」に連なる押井流「ほら話」として描かれているわけだ。


 つまり、この映画は、押井守が考える、「本来あるべき虚構の宮本武蔵像」についての話なのである。


 しかし、その脚本をかなり大まじめに読み込んで、「実写」やCGも交え、かなり「ドキュメンタリー」感を出しているのだが、そこは無理にでも「アニメ」として処理すべきだろう。そうでなきゃ、『虚構を「解体」して新たなる虚構を生み出す』、という本来の押井守の意図が伝わらないじゃんかなー、と思うし、そこを見誤らなければ、もっと面白くなったんじゃないのか、という気がするのです。(★★★)