虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「300/スリーハンドレッド」

toshi202007-06-09

原題:300
監督:ザック・スナイダー
脚本:カート・ジョンスタッド、マイケル・B・ゴードン、ザック・スナイダー



「あなたの落としたのはこの人ですか」「いえいえ、もっときたないの」(「ドラえもん」36巻所収「木こりの泉」より)



 いやあ、美しい。美しすぎて困った。


 物語の舞台は紀元前480年。
 スパルタ王レオニダス(ジェラルド・バトラー)は、ペルシアの大王クセルクセス(ロドリゴ・サントロ)から服従の証を立てるよう迫られる。しかし彼は勇敢で賢い王は、法を守りながら国を守るためにスパルタ兵の精鋭300人とともに要害であるホットゲートへと旅立つ。



 
 実は先行レイトで見たんですけど。もうね。すごい。この映画の撮り方が役者をブルーバックの前で演技させて、そしてCG背景と彼らを組み合わせつつ、彼らの肉体すら美しく加工する、という方法がとられていて。もうまるで躍動するアートともいうべき美麗さ。それにとにかく圧倒されっぱなし。
 見ている間なーんも考えんと色と音と動きと、その美しさに身を委ねてりゃいい、というね。うわーなんも考えられねー。スパルター!スパルター!


 とか思いながら劇場を後にして、終電も終わってるから自転車で家路に着く道すがら、ぼんやりと考えをめぐらせながら漕いでいると、ぼんやりと怖くなってきたんですな。この映画こええ、と。映画というのは恐ろしいものであるな、と。
 映画というのは、まずは感じるべきである。というのが俺の持論なので、基本的に身を委ねながら見たあとに、理屈捏ね回すのが俺の感想のスタイルなんですが、この映画のありようを冷静に考えてみて、この映画、思ったよりも因果な映画に「なってしまった」のではないかと。




 で、話は飛ぶんですけど。


 先日、「パッチギ2」を割と辛口に書いてしまったんですが、そこに書かなかった、というか書くのを忘れていたんですが、この映画に出てくる映画内映画、いわゆる井筒監督が考える愛国特攻映画、という安っぽい代物が現れるんですが、俺がカチンと来たもうひとつの理由に、実はこの映画内映画の1シーンに岡本喜八監督の「日本のいちばん長い日」のパロディみたいな一場面があるんですな。
 たぶん、井筒監督はあの映画がだいっきらいだから、あそこに挟んだに相違ないわけです。ちっきしょう、石原愛国映画と岡本喜八映画をいっしょくたにしやがって、殺す!と俺が憤ったとか憤らないとか。
 でもですね。確かに戦争アクションに「反戦」を色濃く残してきた岡本喜八監督作品らしからぬ、やや「愛国的」と取られかねない作品ではあるんですが、あの作品がああなってしまった理由は、基本的には「資料」となるべき「言葉」たちの質の違いであることは、以前この映画について書いた感想で言及したんでそちらを参照していただくとして。


 つまり、何が言いたいかというと。軍人としての狂気は撮る人が撮ると、それはとてつもなく美しいもの、魅力的にになってしまう危険がはらんでいるわけです。それは本人の思想すら超えてしまうことがある。岡本喜八監督ですら、映画は時として、思想を超えてしまうことがあるわけです。


 この映画が本当に怖いのは、スパルタ王・レオニダスがあまりに美しく、正しく、賢く、そして強いことです。そんな王がどのようにして生まれたかという出自についてもこの映画は描くわけですけど、彼は6歳にして暴力のるつぼに叩き込まれ、死線をくぐりぬけて、生き延びることでスパルタ王に選ばれた、とされるわけですが。
 この過程、というのがまず「スパルタで肉体的に五体満足、最も強く美しい肉体を持つもの」=レオニダス、という前提が生まれるわけです。レオニダスは妻だけを愛し、法を遵守し、民を愛し、そして何より外圧に屈しない意思と、それを貫けるだけの外交能力すら兼ね備えている。まさにパーフェクト。強い肉体とたくましくも清い精神を持つ戦士であり、王。それこそが、レオニダス王である、とこの映画は言うわけさ。



 冷静に考えてみよう。


 そんな為政者いるか!? いますレオニダス王ですケンドーコバヤシか)



 この映画が怖いのはですね。そんな突っ込みを肉体の説得力で「いるじゃん、お前の目の前に!」と言えてしまうことなんです。肉体的説得力が、理性的な突っ込みを霧散させるだけの力を持ってしまっていることなんです。死線を超え、多くの犠牲の果てに生き残った男が王となればそこには賢王が生まれる。
 でもさ、そんなことありえんの?ほんとに?なんというのかな。確かに俺、この映画のレオニダスになら抱かれてもいいですよ。だけど冷静に考えろ。ほんとうにこんな男だったのかレオニダスは。なんか幻想入ってない?ほんとに?



 この映画がもひとつ怖いのは、スパルタ戦士たちの基本が「同じ規格品で構成されたシステム」であるということ。彼らの「美しさ」の根源は「スパルタ戦士の規格」としてふるいに掛けられたものたちであるということ。つまり、徹底した「異物の排除」の末に生まれた軍団であるということです。
 そんな白い肌を持つ「美しき」ギリシャ戦士な彼らがペルシャ軍団の有色人種の、異形で残忍で非情なけだものたちをバッサバッサと斬り殺すわけですよ。俺はね、そこに胡散臭さを感じずにはおれないわけです。彼らの美しさは多大な「犠牲者」の上にいる300人なわけですよ。そいつらが、「民のために決戦に挑まん」とか言うことのなんという胡散臭さね。うそこけと。お前ら戦いたいから、美しく死にたいから行くんちゃうんかい。長年の親のいいつけ守ってね。上司に命まで預けてね。彼らの言う護るべき民にかたわやめくらは果たして入っているのかね?



 ドラえもんに、「きれいなジャイアン」という有名なオチがある。「金の斧 銀の斧」をモチーフにした秘密道具「木こりの泉」という話において、じゃいあんがその泉にぽちゃんと落ちる。女神がきりっとしたジャイアンを出し「あなたが落としたのは」とドラえもんたちに聞き、彼らはうっかり正直に「もっときたないの」と答えてしまい、女神から「きれいなジャイアン」が贈られる。だけど、それはもはやジャイアンじゃないわけ。彼らは喜ぶというよりは困惑の表情を浮かべる。
 ジャイアンは普段は嫌われ者だが、大長編ドラえもんになると、つまり仲間意識が強まると、実は一番頼りになるところを見せる。みんなが悩んでいるときに決断するのはジャイアンだ。のび太が本当に困っているときに手をさしのべるのがジャイアンだ。だけど、みんな知ってのとおり彼は高潔な人間じゃない。彼には彼なりに多くの欠点がある。
 きれいなジャイアンはもはやジャイアンではない。だが、この映画はまさにきれいなジャイアンそのものじゃないか。慈愛、決断力、勇気、高潔。これほど美しいジャイアンがいるか!いますレオニダス王です(もうええて)


 この映画は美しく、魅力的で、血と暴力、死体すら美しく描かれる。



 だけど、あまりに美しく描きすぎている。戦士たちは清く正しいが、政治家たちは卑怯者で、肉体が異形のものは卑しい、という描き方になってしまっているのも、俺にはこの映画に感じる胡散臭さを感じる。あまりに優生学的な思考回路だからだ。
 だが、本当に怖いのは、見ている間、俺はそんなこと微塵も考えていなかったことだ。素直に美しい、と思ってしまっていた。そのことが恐ろしいのだ。石原都知事の映画よりもむしろ、この映画にはるかに戦慄したのはそういうわけなのである。原作者のフランク・ミラーがリベラルな政治姿勢の人間であるということで、安心すべきではない。繰り返すが、映画は時に、作り手の思想すら超える力を持つことがある。そのことが、俺が真に恐れることなのである。。


 そんな警戒心すら起こさせるほど、この映画は魅力的ということでもあるのだけれど。だからこそ、俺たちは大声で叫ばねばならない。美しい戦争などない!「きれいなジャイアン」などいない!、と。(★★★)