「WALL・E/ウォーリー」
原題:Wall-E
監督:アンドリュー・スタントン
脚本:アンドリュー・スタントン、ジム・リードン
無機質なロボットに魂を吹き込む演出レベル、作り込まれた世界観、映像のレベルの高さ。すべてが最高峰の非常に良くできたアニメーションであり、寓話である。とした上で。
それゆえに、上映中ずっと気になっていたことがあった。
僕は映画というものを見るときに、キャラクターの「肉体」という触媒を通して映画を見ることにしている。つまるところキャラクターの魂なり人格なりに「アクセス」する場合に、その「世界」に触れる「肉体」の有りようと、気持ちをリンクさせて、その肉体から「映画」の中の「世界」を見るわけだ。
ウォーリーを見ていて思ったのだけれど。僕にこの映画のどこかに、「違和感」がずっとあって。それはなにか、ということを考えたときに、WALL・Eの「肉体」とウォーリーの人格の間に、どこか別のモノがあるような気がしていたからで。つまるところ、この映画はそれをあえて踏み越えたところで映画を作っているのだ、という前提がまずあった。
ウォーリーの肉体は他の同型ロボットと互換性があって、他の「ウォーリー」たちとの部品交換で彼は生き延びている。彼はそのことには一切の躊躇がないし、それを自明のものとして受け入れているわけだけど。それはロボットとしての「本能」であろう。700年生きてきた彼が、人間の手をつなぐ、という行為に憧れるというのは「人間」にとっての「触れたい」という行為とまた別のモノではないか、と思っていて、それがずっとひっかかりとしてあった。
この映画はロボットとしての本能と、人間としての行為に憧れる心をウォーリーの中に「同居」させることで物語を進行させるわけだけど、その欲求はどこからくるものなのだろう。ウォーリーの中には生殖本能はない。ただ触れたい」と願うわけだけど、彼の肉体にどれほどのセンサーが内蔵されてるのか
そういうのを無視して見ればいいじゃん、というのはその通りだと思う。だけれど、この映画のレベルの映像になると、それはちょっと困難になってくる。ウォーリーというタイプのロボットが厳然として目の前にあり、この肉体のありようを映し出している以上、この肉体とともに映画を見るしかない。
たとえば、ホンダの「アシモ」なんかは人間のように動き、人間のような仕草をし、人間のような判断を出来る、くらいには作り込まれているわけだけど、あれはロボットの「本能」のみで動いているのであって、そこに「魂」はないわけじゃんか。
彼のような「肉体」が「イブ」のような存在を「性的対象」というか、「触れたい」と思うのか。その気持ちはどこからくるのか。ちょっとその辺が、この映画に深く共感をするには至らないところであった。「イブ」が連れ去られるときにとっさに躊躇なく宇宙船に飛び乗り、イブを取り戻すのだ、という意志とともに見果てぬ宇宙へと旅立つ。その衝動は、「ロボット」としての本能を逸脱している気がする。
その逸脱は結局のところ、「擬人化」という形で「誤魔化す」ことで「あると思います!」という感じで描かれているわけだ。人間としての本能としては至極まっとうな彼の行動であるわけだし、そう考えれば共感は可能である。
この映画が「ロマンス」についての映画だから、それは全然受け入れられるんだけれども。
さて。(ここからネタバレ入ります。注意。)
この映画でやがて700年後の「人間」も登場するわけだけど、彼らはもはや今の人間とは別の生き物へと変貌を遂げつつある段階で、もはや我々現代人からさらに後退した末期的な肉体で生存している、という設定になってるわけだ。
それならば俺はとうぜん彼らの「肉体」のありようから、この映画の描く世界観に触れなければならないわけだ。そのように見ていると、ですよ。この映画が示す結末、つまり、彼らが「地球へ帰りたい」という思いで、彼らは行動を起こすわけだけど。あの肉体で、それでも地球へ帰りたい・・・と思うモノだろうか。我々とは別の判断力、別の思考回路で動いている人間が、それでもあの「ゆきとどいた生活」から逃れてまで、リスクある地球の生活を望むのだろうか。
俺はどーもそうは思えなくてさあ。楽しか知らない人間がいきなり何もないところから世界と対峙しよう、と思うのだろうか。「お殿様」の位にいた人間が、農村で一から水呑み百姓になりたいとは思わないだろうし。「御家人」とか「遊び人」に分するのがせいぜいじゃない? 戦国時代に自衛隊がタイムスリップするならまだしも、戦国時代にオタクがタイムスリップした、とかならまず・・・生きては帰れないじゃん?
彼らがそれから先、なんの問題もなく幸せに生きられるか、と言われればそうではないわけじゃんか。退化する流れを止めなきゃ人間が幸せになれない・・・というのは分かるのだけれど、それを決断するには、あまりに彼らは肉体的なリスクを背負いすぎじゃないのか。
この映画は、あまりに「アニメ的」な誤魔化しが許されない領域まで映像を引き上げ、なおかつかなり踏み込んだ形でロボットにすべてを委ねた人間の愚かさを描いているのだけれど、この映画はその踏み込みをかつてのアニメーションと同じレベルで誤魔化そうとする。しかし、ピクサーが追い求めてきた映像のレベルは、もはやその誤魔化しを許さないところまで来てしまったのだと思う。それはCGアニメーションを極めたピクサーだからこそのジレンマかもしれない。
あの結末を「ハッピーエンド」とするには、あまりに「重すぎる」状況ではないか、と思う。原作版「ナウシカ」の結末に相当する悲壮な覚悟が要る状況にあると思う。
この映画が孤独なロボットがロマンスを成就させるまで、と本筋では大変優れた映画でありながら、「ウォーリーとイブが相思相愛、よかったよかった」というハッピーエンドとして素直に受け止めることが出来なかったのは、この映画の結末があまりに重い命題を背負い込んでいるからだと思う。(★★★★☆)