虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「私は貝になりたい」

toshi202008-12-06

監督:福澤克雄
脚本:橋本忍


 1958年にドラマの反響を受けて映画化した同名映画のリメイク作品。
 えー。結論から言うと。自分でもびっくりするくらい泣いた。


 どこから話せばいいだろう。俺はいまだに「火垂るの墓」でぼろぼろ泣く。初めて見たのがテレビ放送でだったんだけど、映画であんな泣いたのは人生でもあまりなくて、たまにテレビ放送で再見したりするとやっぱりぼろぼろぼろ泣くんだけど。
 俺にとってはそういう映画なんですけど、そういう映画であっても見方の違う人はいるもので、俺はあの映画が大嫌いだ、という人もいる。何が嫌いか、というと、一言で言えば「働けや!」ということらしい。
 それを聞いた当時は「なんてこというんだ、あんな素晴らしい映画を!」と思ったものなのだけど、これは監督の高畑勲も明言していることなんだけれども、この映画の清太の行動は、当時の人間としたらかなり浮世離れしている。当時の子供が彼のような境遇に陥っても、もっとうまく立ち回ったのではないか、という。母親が死亡して親戚の家に身を寄せて以降の彼の行動はかなり「世間知らず」な行動で、それは彼が元々おぼっちゃん育ちという背景がある。
 その彼の「世渡りベタ」が結果的な必然として、妹を死なせ、自分も死に至らしめる結果となる。


 しかし、だ。

 だからこそ、1989年の子供に向けて送る映画としては圧倒的に正しい。現代っ子の目からすると、清太の行動はリアルだ。彼のメンタリティはむしろ「現代っ子」の多くに通じる行動であり、だからこそ高畑勲は映画化する意味を見いだした。
 物語がリアルであること。それも重要だ。だけど、それ以上に作り手のビジョンが、物語を通じて観客に何を、どう届けるか、というビジョンがあるかないかで、映画は決まる。


 さて、「私は貝になりたい」なのだけれど。
 
 この映画の序盤。そのときはこの映画にあまり感心はしていなかった。主人公の豊松を演じる中居正広は、わかりやすく「中居くん」である。そして仲間由紀恵もわかりやすく「仲間由紀恵」である。つまり、ものすごく「現代の芸能人」の身体をしている。骨格そのものが変えられないのだから仕方がないのだが、この映画はそれを逆手に取る。


 この映画の元の映画はかなり低予算で作られている。なにせドラマの映画化であるし、セットを再構築する必要がない。それに戦争の記憶が生々しい時期に製作された映画である。この映画はそれを逆手にとって、映画としてかなり予算を割いて製作されている。
 今ではなかなか見られない「高速道路も鉄道も整備されてない日本」という「現代人が知らない日本」を「画」として提示しつつ、土佐から東京までの距離を提示してみせる。その上で、その行程を「仲間由紀恵」にたどらせる。


 そして。
 今の日本人が忘れ去ってしまった「家と刑務所のはるかな距離」を示しつつ、「現代人」の中居くんが戦中・戦後のドツボにはまり、戦犯として絞首刑を言い渡された小市民・清水豊松の悲劇に寄り添いながら、たどる。


 中居くんが、仲間由紀恵が、「現代人」の肉体だからこそ、逆に表現できることがある。彼らがたどるのは、現代人が迷い込んでしまった「戦中日本」であり、「戦後日本」である。


 現代の人間が、忘れてしまった「戦後の悲劇」を現代人の肉体で語り直す。そういう意味ではいびつな映画である。しかし、しかし。だからこそ、戦争から遠く離れて、「過去」として、また「遠くの出来事」としてしか認識できない現代の人間に対するアプローチとしては圧倒的に正しい。
 私は貝になりたい。」
 戦後の人間の多くが共有した痛みを、絶望を、清水豊松という個人を通して語るこの物語は、むしろ戦争から遠く離れた今だからこそ、見直されるべきなのかもしれない。中居正広という肉体を通して、その逃げ道のない悲劇を真っ正面から語り直したこと。この映画の成功はそこにある。(★★★★)