虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「カムイ外伝」

toshi202009-09-29

監督:崔洋一
原作:白土三平
脚本:宮藤官九郎/崔洋一



 つまらなくはない。のだが。なんであろう、ちと漫画にひっぱられすぎなのではないか、と思う。


 ぼくは白土三平の作品を読み込んではおらぬし、原作については映画のもとになった「スガルの島」や廉価版コミックスを目を通したという程度の者であるので、それほど詳しいとはいいがたいのだが、漫画と映画、そのふたつをどのように取り込むのか、という算段の中で、この物語の本質はどこにあるか、を考えてみると、カムイの肉体にあると思う。
 「魂の自由」を欲する心を持ちながら、それを得るために「忍」としての肉体をソリッドに鍛え上げることでしか、獲得できぬ、という究極のジレンマが、カムイにはある。そのことにカムイは、半ば気付いているのではないか、ということである。


 つまり。掟がどうの、というのではなく、カムイは自由を得るには己の肉体の呪いを解く必要がある。しかし、その呪いを解くことは死を意味する。


 映画の本質をどこにおくべきなのかは、決まっている。カムイの依り代たる役者の肉体にこそ、である。その一点において、松山ケンイチを選んだのは慧眼だったと思うのだが、しかし漫画のカムイを完全に憑依させることはできるのか、というと、これがムズカシイ。
 崔洋一監督が選んだのは、デジタルによる肉体を越える描写への「補強」である。「変移抜刀霞斬り」や「飯綱落し」といった必殺技を、CGとワイヤーアクションを駆使して再現してみせるのだが、正直なところを言うとあまり成功していない。なぜなら、肉体のリアリティを越えてしまうことは、すなわち外連ということになる。しかし、外連を使ったアクションがすなわちカムイの肉体のリアリティと完全に同化するところまでいっていない。そのことが、この映画において最後まで尾を引くことになる。


 松山ケンイチがインタビューの中で、この映画の役ほど自分のものにするのが難しかった役はない、と言っていて、その一点で彼はこの映画の本質を本能で悟る、天性の役者であることは間違いないと思うのだが、それはつまり、自分の肉体の可能性を越えた動きを求められたからではないか、と思う。
 つまり、漫画版のカムイと映画版のカムイでは、その肉体の性能差が如実にあるのは当然なのであるから、如何にしてカムイと松山ケンイチの肉体のリアリティをすりあわせていくか、という必要に迫られる。ましてや、彼自身にとっての「大技」を役者の肉体を使って再現する、というのは無謀というほかない。


 アクション場面と日常の演技が違和感なく連動してこそ、アクションとドラマは連動する。アクションを「漫画的なイベント」にしてしまったのは、原作の技の数々が魅力的だったせいだろうし、それを再現したい気持ちも分かるのだが、そこは肉体とのリアリティを越える表現のすり合わないと感じたならあえて引き返すべきところではなかったか。
 漁師の半兵衛(小林薫)のひょうひょうとして、狡猾な側面もありながら、家族を底抜けに愛し、カムイを許容する大きさを持つキャラクターがとにかく魅力的で、カムイが彼を中心に出来上がったコミュニティに、ひととき「人間」として生きる希望を見いだしていく部分は非常にいいと思うけれど、やがて肉体の「解けない呪い」が周りの人間を巻き込んでいく凄絶な展開が、どうにも胸に迫らないのは、漫画的うんぬん以前に、ドラマと肉体の連動が完全に同期できないゆえだと思う。

 漁師の島の生活感溢れるリアリティはさすがだと思ったし、人間の「汚い」部分も決して逃げずに描いているシーンが数々あったりと魅力的な部分も多々あるだけに、カムイを「映画」としてのリアリティを失わずにデチューンしつつ、原作の持つエッセンスとドラマとアクションを同期させられたなら、もっと胸に迫る作品になった気がするのです。(★★★)