虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ミルク」

toshi202009-05-26

原題:Milk
監督:ガス・ヴァン・サント
脚本:ダスティン・ランス・ブラック
 

 あまりハーヴェイ・ミルク氏についての前知識を入れずに見に行った。故にとても新鮮に、彼の半生を感じたし、とても興味深く見た。


 ゲイである自分を押し隠して、ストレートの社会と折り合いをつけてきたミルク氏が、本格的に政治活動する大元の原因をこの映画は多くを割かない。彼が会社を辞め、やがて、華々しく活躍する8年を活写する。

 40歳を契機に、保険の調査員の職を辞して本格的にドロップアウト。自由な日々を経てサンフランシスコで開いた「カストロ・カメラ」という店を中心に、ゲイ・コミュニティの中心になっていく。その過程は、「ゲイ」という色眼鏡を取ってみると、まるで侠客のようだ。「カストロ通りの市長」と自称するとこなんか、「清水の次郎長」のような侠客的気質を思わせる。
 ゲイが行きずりに殺されても、警官が真面目に捜査をしない。ゲイにも、いや弱者にも人権がある、それを決して犯させはしない。人並み外れた情熱が、かれを政治活動へと駆り立てた。
 その活動のさなか、彼に暗殺をほのめかす脅迫状が届く。彼はそれを冷蔵庫に飾って教訓にする、とうそぶきつつも、自らの活動が「ある人々」にとっては恐怖の対象であり、その行動が死と隣り合わせということを自覚していく。


 これは「恐怖する多数の人々」に対する、「主張するマイノリティ」の信条、存在をかけた、「戦争」なのだ。


 実在の人物についての映画、ということで、構えて見ていたのだが、この映画は彼自身の死を「起こるべくして起こる運命」として見つめつつ、アメリカ政治史にとって重要な人物の人生を、この映画は外向きの顔を叙事的に描きつつ、「内向き」の顔を「3人のオトコ」を通して描いているのが興味深かった。
 スコット・スミス(ジェームズ・フランコ)、ジャック・リラ(ディエゴ・ルナ)、そしてダン・ホワイト(ジョシュ・ブローリン)。


 3人のウチ、映画で初めに出会うのはスコット。
 不惑にして、スコットともに彼は社会からドロップアウトし、自分が何者かを強烈に掴むことでゲイとしての自己確立をしたハーヴェイ・ミルクは、仲間とともにゲイを弾圧する社会に積極的にコミットする道を選ぶ。弱者である自分の積極肯定は結果として「弱者の積極肯定」という理念となり、そこに強烈な他の弱者の共感を取り込み、支持者を増やす結果となる。
 だが、彼の政治への熱心な関わりはスコットの本意ではなく、やがて気持ちのすれちがいからスコットはミルク氏の元を去る。


 そして市政執行委員に当選。彼はその選挙過程でジャック・リラと交際を始めた。
 政治と関わりない話が大好きで、なおかつキュートなジャックにミルクは振り回される。ジャックは奔放だが、ミルクを取り巻く人々からは煙たがられていて、彼もその空気を感じて、ミルクが華々しく政治活動すればするほど、情緒を乱してミルクを困らせた。
 ミルクが熱心に政治活動していた裏には、かつての恋人たちのほとんどが自殺未遂に追い込まれたからだった。自分が「本当の自分」を押し隠し、「ストレート」の社会に順応しようとした自分が、結果として恋人を精神的に追い込んだと、ミルク氏は思っている。もう、だれも、ぼくのあいするひとを、死なせはしない。
 だが。その情熱だけで突っ走ってきたミルク氏を打ちのめす行動を、ジャックは実行する。


 そして、ダン・ホワイトである。
 彼は恋人ではない。友達で、仲間でもない。ミルクと同時期に市政執行委員となり、ガチガチの保守派であるダン・ホワイトを、この映画は彼の「ある可能性」をほのめかす。ミルクが彼に協力姿勢を見せることに、仲間たちはいぶかるが、ミルクは「彼は『仲間』だとぼくは思うね。」「ぼくには『秘密』を抱えてる人間の気持ちがわかるからね。」と言う。


 彼がミルクが好きなのではないか、というか、親しくなりたい、というアプローチを結構している(気がする)。もちろん彼はおおっぴらにはしないし、映画もそこまでガチガチには描いていないが、とくに「洗礼式」jのシーンなんか印象的だった。
 彼はミルクに「洗礼式」に来ないか?と誘う。ユダヤ人でゲイのミルクを。それでいて、洗礼式の日。執行委員で来たのはミルク一人。このシーン、なんとなく違和感がある。だって、なんで一人息子の大事な式に、ミルクを呼ぶのか。そして、他の執行委員に「断られた」というのは本当か?「言ってない」のではないかい!?


 ともあれ洗礼式で協力する方向性を模索するなど、(政治的に)良好になっていってるように見えたミルクとダンの関係は、協力を取り付けていたはずの「精神病院建設反対」の賛成を、ミルクが翻すことで、一気に悪化する。これを裏切りと取ったダン氏は、ミルクへの反抗心をむき出しにし始める。
 宗教的にも、心情的にも、俺は保守的な人間だ。それが正しいと信じてきた。だからこそ、だからこそ、おれは支持者や家族が期待する「ダン・ホワイト」像に忠実でなければならない。しかし、そこに忠実であればあるほど、奔放なkミの存在はまぶしい!これほどキミに恋焦がれてるのに、おれの思い通りになってくれない!ああ、なんでキミはボクの気持ちをふみにじるのか!
 ・・・などというセリフなどあるはずもなく、この映画はすっとほのめかすだけである。酔っ払って、ミルクの誕生パーティに酔態であらわれて、感情的な口論をしてしまう場面で「おれにだってなあ、『事情』があんだよ!」と叫ぶシーンは、なぜか、なぜか、泣けた。なぜだろうなあ。わかんねえや。
 死の予感、そして「腐」のにおい。この映画のダン・ホワイトはそのふたつを漂わせている。実はダン・ホワイトは登場する前から不吉な匂いを放っている。それは、彼が登場するシーンより前からほのめかされており、それがより、(一部の)観客の妄想を引き出す。


 実際のホワイトが、「そういう感情」を持っていたのか、定かではない。この映画も別にそのことをおおっぴらにしたいわけではない。だが。脚本のダスティン・ランス・ブラックが、それをストーリーのフックとして描いているのは気がするのは俺だけだろうか・・・?
 ま、それはともかく、この「3人のオトコ」たちとのすれ違いによって、深い喪失を得てもなお。彼は、「自由」のための「戦争」を挑むのをやめなかった。彼は愛を望みながらも、最後には「仲間」の幸せのために、世界を敵に回す覚悟で戦い続けた。この映画は誰よりも「ゲイ」であることを自覚した、一人の「漢」の物語なのだと俺は思った。(★★★★)