虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「グラン・トリノ」

toshi202009-05-24

原題:Gran Torino
監督・製作:クリント・イーストウッド
脚本:ニック・シェンク
原案:デビッド・ジョハンソン/ニック・シェンク


 えー・・・と。いきなり、全然関係ない話から入りますけど。


 今、毎週木曜日に「東のエデン」というアニメが放送中でして。まあ、内容は話に関係ないんで割愛しますけど、「東のエデン」って何かっつーと、大学生のヒロインが入っているサークルの名前で、学生だけで起業して就職せんで済むようにする!、というよくわかんない活動をしている団体で。そのサークルで作ったケータイ用のアプリケーションがある。
 でね。それが、iphone用に作られたアプリ「セカイカメラ」とよく似ている、というので一部で話題になった。


 どういうソフトかというと。要はカメラにその「場所」や「もの」を映り込ませると、そこに「タグ」の情報が出てくる。つまり、場所やモノに、自分なりの「意味づけ」を残せるわけです。
 「意味づけ」というのは便利なもので。文章で語るうえではかなり、「使える」方便だったりする。しかし。思い入れの数だけ「意味づけ」は増えていく。


 去年の夏公開された「崖の上のポニョ」という映画が面白かったのは、「意味づけ」があまりにも多様化していたことだ。映画の「肉体」そのものは「ひとつ」のはずである。しかし、その思い入れの深さから、見る人によってつける「タグ」の色は賛否の強弱や色を含めて、まさにその語られ方は千差万別だった。
 「サイゾー」という雑誌で、町山智浩さん、宮台真司さん、東浩紀さん、宇野常寛さん、切通理作さんが、それぞれに「ポニョ」を語ったときに、同じ映画について語られているのに、その語られ方、評価がなにひとつ同じではなく、そしてなによりも「俺こそが一番宮崎駿を知っている」という自意識をむき出しにして語っているのである。
 それぞれの「批評」まったく別々なのに決して間違っているわけではない。それらを包括して受け入れてなお、「ポニョ」という映画は決して崩れない。それこそが監督の「器量」というものではないか。と思う。


 で、本題。


 4月末に公開された本作を、今の今まで見なかったのは、大変不徳の致すところではあるのだが、公開日の26日はというと、私はがっつり入院しておりまして、見に行こうにも見にいけずにもんもんとしておりました。しかも評判だけはばんばん入ってきて、なんかもう、「絶賛に次ぐ絶賛」という状況で、この映画を褒めずば人にあらず、というような勢いで、そうなると私の期待もいかようにも上がります。


 その間に断片的な情報は入ってくるわけです。


 「イーストウッドの遺言」「俳優・イーストウッドの総決算的傑作」「★5つ」「宗教的にうんたらかんたら」「あのシーンは懺悔がどうした」「最高に泣けた」「B級テイストもあるでよ」「しかも笑えるらしい」


 私の中の「東のエデン」が、「グラントリノ」につぎつぎとタグを貼り付けて行きます。
 私がケータイしかネットにつなぐ手段がない時にでも、「意味づけ」だけはばんばん増えていくわけです。タグがありすぎて画像が見えなくなっちゃったよもう!よくわかんらん、と。見ないことには始まらない!
 と思いつつも、もう、ここまで大量に意味づけされてる今、私に語れることなのあるのだろうか、という不安や、上がりすぎた期待で、かえって映画を楽しめなかったらいやだな・・・と思って。入院後、体力気力が落ちていることも重なって、しばらく逃げるように他の映画をみたりしていたのですが。


 で、今日ですよ。最初は「ミルク」を見に行くつもりで銀座まで行って、「あ、ちょうど「グラントリノ」もやってるぞ。どっしようかな。「グラトリ」の方が上映時間が早いぞ。しっかたねえーなあ、「グラトリ」みっか」と自分自身に軽くフェイントかける余裕が出るまで、クールダウンして出来うる限り「タグ」を剥がしてから、映画に向かいました。<なんだそれ。


 で、映画ですけど。


 面白かった。面白かったですよ。そして納得しました。
 これは語りたくなる映画ですよ。つまり「意味づけ」が物語を語る上で欠かせない映画、という意味において。なぜ、ここ数作出演を避けてきた「俳優・イーストウッド」を「監督・イーストウッド」が何故主演に抜擢したのか。という。それはつまり、自らの「肉体」の「意味」や「価値」を「イーストウッド」が知っているからこその、映画なのだと。
 だから、映画そのものにも、見ている側の「それぞれの思い入れ」によって「情報」が千差万別に変わる。そして、それらは決して「嘘」ではない。すべてが「真実」。それこそが、「イーストウッド」という監督の作品が持つ「強度」であり、「度量」なのだな、と思った
 しかし。
 その意味づけを、あえてとっぱらって見るならば、本作は限りなく「完成度の高い娯楽作品」以外何物でもない。「笑って泣ける娯楽映画」であって、あまり深刻に見る映画ではないのではないか、とも思った。無論、色々深刻な問題やキーワードを映画に込めてはいるのだが、それはあくまでも映画の「一部」であって主題ではなく、本質は「面白い映画」なのだと。
 だって、時折、思いついたように掛け合い漫才みたいな会話があったりするし。
 しかもイーストウッド監督演出による「ショートコント」とかあんだよ。「お題:男の床屋」という。うーわー、巨匠みずからショートコントかよ!と思って。他にも隣のばーさんとの掛け合いとか、隣のモン族の少年の姉と母親がイーストウッドの家に押しかけて「弟を働かせてやってくれ」と頼む件とか、モン族の娘の名前をひたすら間違えるイーストウッドとか、もう可笑しくって可笑しくって腹抱えて笑ってたんだけど、みんな「深刻に見る映画」という「意味づけ」してる人が多いのか、日曜日の劇場で混雑しているにも関わらず、笑ってるの、俺と、少し離れたとこにいるおばさん客とか数人くらいで。なんか、さみしかったな。


 そして、アタクシが感じた「タグ」をすっと挟み込むならば、「教育」というキーワードが入る。題して「イーストウッド先生流男の授業」である。
 物語とは語り手の中にある「なにか」を「遺す」ことである。それが僕が、「物語」という存在を愛する理由のひとつである。そして、イーストウッド演じるコワルスキー翁は自分の生きている意味を見失っていた。彼はおそらく、息子を「教育」してこれなかった。戦争体験を通じて、そんな資格が自分にあるわけがない、と思い込んでいたがらだ。
 そんな時に彼は、ひょんなことから「米喰い族」などと侮蔑していた隣の「モン族の一家」との交流を持つことになり、彼らとの交流を通して彼はみずからの「偏見」があっさりと解け、情愛すら感じていることに衝撃を受ける。
 そこの一人息子・タオが、「車泥棒」しようとした「詫び」として働きに来る。始めは、彼はみずからの「アメリカ男性」のあり方を「モン族」の少年にたたき込む。硬直した「現在」を変えるために「異邦人」を受け入れることで「アメリカ」は新たな「始まり」を迎えたい、という今のアメリカの空気を反映した展開、という「意味づけ」も出来そうだ。
 でもそれ以上に、この「アメリカ男性」のあり方や自らの技術を自ら嬉々として教え、それを楽しそうに吸収するタオとの交流場面こそが、「生きる」ことに不器用な男が見つけた、生きる意味」でもあり、それこそがこの映画の見所でもあると思う。


 で。体罰というのが何故いけないか、という話になる。暴力で抑圧された人間は必ず暴力を誰かにふるうようになるからである。
 コワルスキー翁もまた、「不良」どもが、自分がひいきにしている「優等生」のタオをいじめたことで、不良に制裁という名の「体罰」を加えるのだが、やがて待っていたのはさらに弱い者への陰湿な「暴力」だった。
 教育は、教育される側だけではなく、教育する側も又、学ばねばならぬ。暴力でいじめをなくしても、それはより陰湿なかたちで、噴出するものだ。日本の「いじめ」問題の根深さにも通じる展開である。


 この映画のラストは、決して「正解」ではないし、正しい行いとも思わない。しかし、自らの行いが生んだ「結果」と向き合った老人は、「復讐」へと駆り立てられる少年に対し、「最後の授業」を行う。
 老人が最後に見つけた「生き甲斐」を与えてくれた者を守り、そしてみずからの「行い」から学んだ教訓を「伝える」ために、彼は死地へと赴くのである。


 見終わったあと、思ったのだ。老人が少年に与えた最高の遺産は、己の「過去」への「固執」から磨き上げたピカピカの「グラントリノ」なんかではなく、少年との交流のなかで「教えたこと」であり、そして自らが「学んだ」日々なのだと。そして、これがこの映画を最高に輝かせた。
 素晴らしい授業をしてくれたイーストウッド先生に、万雷の拍手のあらんことを。(★★★★★)