虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「ツォツィ」

toshi202007-06-08

原題:Tsotsi
監督:ギャヴィン・フッド


 その日は、ひどい雨になった。少年は傘もさせずに雨に震えていた。


 車で帰宅した黒人女性。家の門まで来て彼女は車を降り、門を開けて欲しいとインターホンで呼ぶ。雨に濡れ寒さに震えながら門が開くのを待っていると、雨の中から影が現れた。少年くらいのおもだちの男。その手には銃が握られていて、銃口はこちらに向けられている。恐怖で頭が真っ白になった女性を尻目に少年は銃口を向けたまま、車に乗り込んだ。エンジンは切られていない。女性は気づく。その車に少年を乗せてはいけない!なぜなら・・・・!
 体が先に反応する、思考より早く、女性は少年を車から引きずり出そうとする。銃口は見えている。だけど、その車には・・・・。少年は女性の行動に驚き、引き鉄を引く。銃声。


 女性はその場に倒れ込み、車は猛スピードで屋敷から離れていく。女性は痛みの中でその車をいつまでも目で追い続ける。そこには、彼女の子供が乗っていたからだ。





 「不良」*1と名乗った少年の話である。


 南アフリカという国を、どういう風に認識すべきなのか。人種隔離政策、アパルトヘイトと闘争したマンデラ元大統領で有名な国だが、アパルトヘイトが撤廃された今も経済は厳しく、犯罪率は高く、人種間格差は未だ根強いと聞く。この映画もそれに裏打ちされたかのように、スラム街は広く軒を連ねているが、そこにすら入れず、土管で暮らす少年たちの存在も描かれ、ツォツィもかつてそこの住人であったことが明かされる。HIVの陽性率が高い事でも知られているが、街では「エイズ検査へ行こう」という広告が駅にでかでかと掲げられていたりする。そこで少年たちは明日をも知れない中、盗みを行い、殺しもいとわない。人は生まれも育ちも選べない。そこでどう生きるべきなのか。
 この映画は「シティ・オブ・ゴッド」ほどの社会性はない娯楽作ではあるが、だからこそこの映画が描く少年たちの存在は南アフリカの影を如実に反映したもの、と言える、「赤ちゃんに乾杯」の系譜に属するタイプの映画だが、コメディの色は薄く、むしろ赤ん坊は少年にとっての「かつての自分」を象徴する。厳しい環境で少年はかつての自分を救うことで、無意識に自らも救われたいと願う話だが、彼らをそこまで追い込んだものはなんなのか。そこに思いを巡らせながら見ると、この映画は俄然深みを帯びる。


 赤ちゃんの存在にかつての自分を映す主人公は、赤ん坊を必死に育てようと試みる。人の命すら自らの手に絶ってきた青年は、ここにきて自らの無力を思い知る。赤ん坊を育てるには金が要る。根気も技術も。だが俺には、まるでそれがない。
 少年は、赤ん坊を育てるために銃を取る。授乳をさせたくて、未亡人のシングルマザーの女性のところに銃をつきつけて入り込み、授乳させる。その姿に少年は、かつての母親の姿を見、女性は少年の安心したようなその表情に、感情を揺らされる、という場面はユニークで面白い。
 青年は足を失い、車いすに乗った路上生活者のおっさんから金を巻き上げようとした際、ふっと聞く。そんな状態になってまで、何で生きたい。どうして生きたいと願う。おっさんは答える。「俺はそれでも、太陽の光を感じていたい」と。その時、少年は何を感じただろう。


 孤独な闇の中で生きてきた、青年がなぜあの時、あの車を奪ったのか。かつて「じゃりン子チエ」のおバアァが「ひもじい」+「寒い」+「さみしい」はセットになると、人は死にたくなる(だから腹を膨らせなきゃいかん)、と言っていたのを思い出す。寒さと空腹、そこに孤独が加わると人は、体だけじゃなく心すら冷えてくるのだ。
 そこから逃れたい。そんな思いから青年は車を奪い、そして、彼は、赤ん坊と出会った。


 結局、彼は子供を育てようとしながら罪を重ねてしまうのだが、しかし、それでも最後に希望があるのは彼の中に、太陽の光を浴びて生きたい、という渇望がわき上がってくるからではないか。その赤ん坊を見たときから、まっとうに生きたいと心から願い、だけど果たせないもがきが、全編を貫く。
 ラスト。赤ん坊を離したくない、という葛藤の中で、それでも説得に応じてゆっくりと手放す。そこにある葛藤の中で、別れを選択するのは、彼が心の底から善く生きたいと願ったからではないか。悪行から始まった物語がやがて希望の光に包まれるラストは、月並みという言葉では括れない輝きが見えた気がした。(★★★★)

*1:=Tsotsi。ヨハネスブルグスラングで「不良」「ちんぴら」の意