虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

「イリュージョニスト」

toshi202011-03-28

原題:L'illusionniste
監督・脚色・キャラクターデザイン:シルバン・ショメ
オリジナル脚本:ジャック・タチ


 かつては人気を博した日々も今は昔。
 家族もなく、黄昏の日々の中で、食うためにドサまわりを続ける、初老の手品師。その名もジャック・”イリュージョニスト”・タチシェフ。


 時は1959年。テレビの登場で興行が頭打ちになっているパリでの仕事をなくして、海を渡り、イギリス・ロンドン。ロックバンド・ブームの波にさらわれ、流れ流れてスコットランドのド田舎のレストランで営業する。
 狭いレストランでは、電気開通のお祝いのパーティが開かれていて、そこで披露した彼が得意とする手技は目を惹き、拍手喝采。その技に惹かれて、ひとりの少女が彼に興味を示す。名前をアリスという。彼女は手品師の技のひとつひとつに感激し、タチシェフ氏は彼女に、かつて生き別れた娘の面影を見て、赤い靴を手品とともにプレゼントして、その田舎を立ち去る。
 しかし、少女は彼の手品を「魔法」と信じて、彼を追って、次の目的地の街までついてきてしまう。「魔法ではない」と伝えようとしても、異国のため、言葉が通じず、誤解は解けないまま、老手品師と少女の奇妙な生活が始まることになる。


 今やフランスを代表するアニメ映画監督の一人、シルヴァン・ショメ監督最新作である。
 前作「ベルヴィル・ランデブー」で見せた毒気のあるギャグや、独特のデフォルメを見せるキャラクター造形は影を潜め、非常に端正かつ丁寧な作画、美しく描き混まれた背景美術が印象に残る。ジャック・タチの遺稿と、その脚本を託された娘さんとの関係の中で始まったプロジェクトであるということで、ショメ監督のカラーよりもジャック・タチへの敬愛が勝っていて、主人公の手品師やヒロインの少女だけではなく、脇役のひとりひとりのキャラクターへの素直な愛情が、パンパンに詰まっていることを感じる。
 初老の男性と少女の同居生活、というシチュエーションであるにも関わらず、なぜかふたりの間にはエロティックな雰囲気は皆無であるのだが、それはなぜか、と言えば、この映画は疑似親子の話だからなのだと思う。
 少女の無垢さを信じる筋立てに、時代の感性の違いや、ジャック・タチというひとの作家性の一端があるような気がするのだけれど、何より、この脚本をタチ監督が「娘のために書いた脚本」というところが大きいのかもしれない。その筋立てにショメ監督はあえて異議を唱えることはなく、すーっと寄り添って見せる。


 この映画には「失われていくもの」が最後に過ごした時間についての映画でもあって、ステージ興行で生活の糧を稼いでいたエンターティナーたちの落日の日々を描いてもいる。ホテルに集うピエロ、腹話術師、アクロバティックな動きを見せる三人組。「大衆演劇場」から日々の糧を得ていた彼らは本来の仕事をなくし、居場所を失っていく。
 タチシェフ氏は長く、ドサ周りを続ける、摩耗するような日々を過ごす中で、かつて失った娘の面影を、手品を魔法と信じる少女・アリスに見る。そして、彼女との生活の中で生きる張りを取り戻した彼は、彼女のこころをつなぎとめるために、「魔法」を続けていく。しかし、無い袖はふれない、手品師は「魔法」を続けるために見えないところでアルバイトをするなどしていくが、やがて少女は、無垢なる時代をすぎて、心は「魔法」から「一人の青年」へと流れていく。
 そこには、ジャック・タチの自らの境遇と、やがて巣立っていくだろう娘への複雑な思いが反映されているのだろう、と邪推する。


 「魔法」が終わる時。それは少女が巣立つ時。
 青年とアリスの思いを知った手品師は、ともに長く旅した手品の「相棒」であるウサギを、山のふもとへ解き放つと、メッセージを残して彼女の元を去る。雨が吹きすさぶ中、少女が部屋を去った後、ふいに窓からふきこんだ風が見せる、最後の「イリュージョン」のシーンが切なくも美しく、アニメーションの「魔法」を信じるショメ監督の、思いと重なってみえる。
 脚本をショメ監督に託した、ジャック・タチ氏の娘のソフィアも2008年に亡くなったという。ショメ監督はその脚本をもとに、この映画をつくっている。ショメ監督にとっても、「失われた者たち」の再生と、彼らへの限りない愛を捧げた映画なのだと思う。(★★★★☆)