「太平洋の奇跡 フォックスと呼ばれた男」
監督:平山秀幸
原作:ドン・ジョーンズ
US監督:チェリン・グラック
1944年。6月。サイパン。
陸軍歩兵第18連隊、大場栄大尉は、そこにいた。日本から2000キロ余り離れたその島は、日米にとって重要な軍事拠点であり、そこを死守することが、大場栄ほかサイパンにいる陸軍の任務であった。
しかし、圧倒的物量を誇るアメリカ軍の前に日本の劣勢は明らかなものとなり、日本軍は悲壮な玉砕作戦を敢行するものの、アメリカ軍の前に敗れ、軍人や民間人は、次々と自決していった。
大場栄大尉は、最後の玉砕作戦に参加し、同胞が次々と死んでいく中、死体にまぎれ、死んだふりをして、アメリカ軍をやり過ごした自分の中に、「生きたい」という生存本能の強さを知り、葛藤する。生きて、祖国の土を踏みたい。仲間にも。しかし、相手は「鬼畜米英」。同胞や民間人を敵の手に渡すわけにはいかない。
そんな彼がとった行動は、アメリカ軍にゲリラ戦を展開して、戦い続けることだった。はぐれ者の堀内一等兵と共同戦線を張りながら、彼はサイパンを制圧したアメリカ軍に投降せず、タッポーチョ山に潜みながら、戦いを続けていくのだが・・・。
一方、アメリカ軍には日本に留学経験を持つルイス大尉は、粘り強く戦いを続ける日本人にシンパシーを感じ始めていた。特に、敵の一部隊を率いるそのリーダーに。不屈の誇りを持ち、我々アメリカ軍を翻弄し、仲間と生き延びようとするその男に。彼らはいつしか大場を「フォックス」と呼ぶようになる。ルイスはなんとか、この男を救いたいと願う。その為には日本人の誇りを傷つけることなく日本人達を投降させ、この戦いを終わらせるしかない。彼は、収容所にいる日本人と協力して、彼らを説得しようと試みる。
玉砕の島、サイパン。重要拠点を守る彼らは、死んで祖国を守る盾になることが「当たり前」で、命は天皇陛下のために捧げなければならぬ。
その「当たり前」が公然とまかり通るその地で、「生きる」ために。退くことを許されない日本人達は、生きるための「闘争」を選択せざるを得なかった。
しかし、投降した民間人の中にもアメリカ留学の経験を持つ青年がおり、彼らと何人かの日本人、はなんとか、同胞を「生きて祖国の地を踏ませるために」と、ルイス大尉に協力を申し出るのだけれど、彼らの思いは何度大場たちとすれ違ってしまう。
大場栄は決して完璧なリーダーではない。常に「生」と「死」の葛藤にゆれている。彼が選択せざるを得なかったゲリラ戦は、決して彼の本意ではない。彼は同胞の屍を越えてでも生きたい、という自分と激しく葛藤しているし、一度始めた戦いをそうそう降りられるわけもない。彼もまた、「アメリカ」は「信じるに値しない敵」である。玉砕が当たり前となった「セカイ」で「生きよう」とすること。それ自体が罪深いもののように思えてしまう。
アメリカ軍は、日本軍を投降させるために、様々なことをするものの、彼らは決して山を下りようとはしない。本土が焼け野原になり、天皇陛下が無条件降伏を受け入れた後も。「玉砕しましょう!」という部下の声に押され、大場大尉は、決断力がないがゆえに、ずるずると投降する機会を失っていく。
物資もなく、悲惨なゲリラ戦を続ける中で追い詰められ、ひとりの兵士が自決しようと逡巡する姿を、大場は目撃する場面がある。しかし、大場は止められもせず、彼の「生」と「死」が葛藤する姿を、ただ息をつめて見守る他なかった。
そこまでしてタッポーチョ山にこもる日本人が、アメリカ人のメンタリティでは「理解できない」からこそ、大場大尉は「フォックス」と呼ばれ、畏怖されるようになるが、しかし、この映画は、大場のリーダーとしての「弱さ」を浮き彫りにすることによって、戦い続けることの「愚妹」さをも浮き彫りにする。
さまざまな犠牲の果てに、投降した大場を、ルイスは同胞を守り続けた「英雄」として扱おうとするが、大場は実感を持って言う。「私は、この島に来てから、褒められるようなことは、なにひとつしちゃいません。」と。
この映画は、アメリカ人から「英雄」と呼ばれた平々凡々たる一人の男の、「死ぬことが当たり前となった世界」で「生」と「死」の中であがいた日々をこそ、描いた映画なのである。(★★★☆)