虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

大きすぎる悲劇はセンチメンタルを押し流す。


 ひさしぶりにだらだらとした文章が書きたくなった。


 普段からぼんやりするのが好きである。ぼんやりしていたい。ぼんやりして生きていたい。


 色んなことを感じ、その感じたことから抽出したなにかをこねくりまわしながら、なにかをしていたい。というのがボクの本来の領分である。無音。そのなかですこしずつそぎ落としていく中から見えてくるなにかをつかむ。その瞬間が好きである。


 しかし。まあー、その私のぼんやりしたい人生を吹き飛ばすようなことがあまりにも多く起こりすぎていろここ1ヶ月ちょっと。もう、どうしたらいいのかわからないまま、壊れていく世界と、やらなきゃいけないことと、洪水のように流れてくる情報と、確実に失われていく体力と。もうぐるぐるぐるぐるぐるぐる。時は確実に流れてしまっていて、しかも、僕らの身近な世界がさまざまなことに浸食されていく。


 センチメンタルになることすら許さない世界というものに、直面しながら生きている息苦しさをずっと抱えていると心がゆがみそうで、いやだ。ほんとにね、
 目を閉じ、耳をふさいでも、いやなことはテレビで、ネットで、いやんなるほど流れてくる。もう、この世はどうなっていくのだろう。と思いながら。


 ・・・なんかね、ここ最近、モノを書く根本みたいなものが少しずつ消え失せていたというか、書きたい!という衝動が消えることを恐れている。無音でいることすら許されない世界に生きていると、こころのストックが消え失せていくようで、とてもつらい。

 たったひとつの「地球の震動」で、僕らの世界は危険に陥る、危うい均衡にあることを僕らは知って、いや、知ってしたけれど、目をふさいできたものが露わになって、いまさらながら戦慄し、常に外界と接続し続けなければいけない意識の中で、混乱しつづけている。


 そんな状況の中、ずっと緊張し続けている意識のなかで、ふいに「ぼんやりしたい」と思ったのは、伊集院光が、今週のラジオで「坂上二郎」の曲をかけて、さらに、今度の久米宏のラジオで萩本欽一さんがゲストに来て、坂上二郎について語る、ということを知ったからである。


 坂上さんの訃報は震災が起こる、その前日だった。震災前の世界なら、多分、坂上さんの魂が失われたことに祈り、彼が遺してくれたもののに思いを馳せていたはずである。しかし、この1ヶ月は、坂上さんに思いを馳せるどころか、坂上さんの死が、とても遠いもののように感じてしまっていることに、気付いたからである。
 その瞬間、なんか、とても哀しくなってしまった。


 人の死にすらセンチメンタルになれなくなる世界。現実の死が短期間に一気にもたらされる悲劇の中で、ぼくらは心に高い壁をつくってしまっていた。死に思いをはせるには、あまりにも悲劇が多すぎて、心を閉じないと前に進めなくなっている。
 震災前。震災後。たった1日で「死」の意味まで変わってしまう。「死」をただただ現実としてしか、受け止められず、思いを殺しながら見ないと、耐えられない世界で僕らは生きているのだな、と改めて思う。


 僕らは、震災前になくしてしまったものを取り戻さなくてはいけない。それは物質的な復興よりも、いや、それもそうだけど、心がセンチメンタルになることを許してくれる世界を取り戻すことではないかと思う。その時が、僕らが悲劇の中でなくしたものを再び取り戻した日だろう。そう思うのである。