虚馬ダイアリー

「窓の外」のブログ

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toshi202011-08-07

監督:山下敦弘
原作:川本三郎
脚本:向井康介


 福島県いわき市のポレポレいわきで落ち穂拾い。・・・いわき市?そう、いわき市。ま、それはともかく。

言ってしまえば僕らなんか似せて作ったマガイモノです すぐにそれと見破られぬように上げ底して暮らしています  ほっぺたから横隔膜まで誰かを呪ってやるって気持ち膨らまし 「こんなんじゃ嫌だ!」って
苦肉の策を練ってなんとか今日を生きてるよ
Mr.Children「フェイク」より)

 なぜ人は忘れるのだろう。そして忘れないのだろう。


 記憶というのは実に自分に都合良く出来ている。人は全てを記憶することは出来ない。ただ、自分の心の中に留めおくべきことをピックアップすると、後は消去するか、心の奥底の引き出しにしまいこんでしまう。
 人は「人生」という物語の中に生きているけれど、そこで人々と邂逅したとして、いずれその人と別れてしまったとしたら、それはまるで「通過点」であるかのように、考えてしまう。人との出会いを、「通り過ぎた」と考える。


 さて。
 ぼくはこの映画に描かれる69年の頃には存在すらしていないし、その時代の空気はよく知らない。あの頃大学生となるとうちの両親の世代に属する。
 ただ、なんとなく分かることもある。世代間格差というのは、今もヒエラルキーとして存在するけれども、昭和の時代はもっと厳然とした世代間格差が存在した。「終戦前」と「終戦後」。この時代に大学生になっている人々は、どれも終戦後に生を受けた人々だ。彼らは、戦争を知らない子供達と呼ばれる最初の世代と言える。


 平和の中で高度成長時代の混乱の中で、今よりももっと大学生であることへのプライドがあった時代に、彼らが向かった先が資本主義や欧米列強の横暴と戦い、世の中を劇的に変える「社会主義革命」であることは、至極当然のことのようにも思えた。平和の時代にそだち、戦争を知らないひよっ子どもであるコンプレックスと、漫然と与えられた教育の中で生きることを拒絶し、やり場のない情熱の行き先が、「自分たちの力で戦前に生きた老頭どもとは違うことをなしとげる!」ということだとするのは、なんとなく想像しやすい。
 しかし、70年代以降、それらの情熱は継承されることなく形骸化していく。
 

「世界を、革命する力を!」


 先日亡くなった声優の川上とも子さんの出世作であり、現在「輪るピングドラム」が放映中の監督・幾原邦彦さんの代表作であるテレビアニメ「少女革命ウテナ」の、代表的なフレーズである。
 このアニメが放映され、僕が高校生から大学生として過ごした90年代において、「革命」という言葉は「意匠」としての存在しかなかった。カクメイする、という意識はもはやセカイという外界と向き合うための何かであったり、またはもっと精神的な部分で語られる単語になりつつあった気がする。


 この映画に出てくる妻夫木聡演じる主人公・沢田にしても、彼が出会い、関わりを深めていく松山ケンイチ演じる梅山にしても、僕が彼らを見ていて思うのは、非常に当時の人間よりも、むしろ「僕ら」つまり、70年代に生を受けた人間が、非常に共有しやすいキャラクターになっているのではないか、ということだ。
 沢田は自分たちが社会を革命するようなことは出来ないということを知っている。彼が学生時代に起きた東大紛争に関われなかったことを後悔しながら生きている人物だが、しかし、「革命起こらねーかなー」という思いを漠然としながら持っている。彼は新聞会社に就職して週刊誌部門に配属され、会社の仕事として「東京放浪日記」というコラムを書いているが、彼の文章はセンチメンタルだと彼のデスクから酷評される。具体性がない、というのだ。
 彼にとっては、東京を放浪して、出会いを通じて自分が体験したことなど、「通過点」であるとしか思っていない。彼には出会った人に対するある程度の愛着はある。しかし、その世界に、ずっと寄り添おうとする覚悟などハナからありゃしないので、文章がセンチメンタルになる。彼らよりももっと価値のある人間になりたいと願いながら、具体的な方策などありはしないので、敗北感にうちのめされている。それは彼の心根が「中二病」的なのだと思う。


 そして、この映画で、原作にはないカタチで時間を割いて描かれるのが「梅山」こと片桐優である。彼の生きてきた社会的背景をキレイに排除しつつ、彼は「セカイを変える」行為としての「革命」を起こしたいと思っている男として描かれる。
 この映画において、梅山という男は実力もコネも活動家としての器量もない。ただあるのは、「セカイを変える行為」としての「革命」を起こしたい、というただ一点であり、彼には革命によって変えるべき、具体的な社会的な目的すらない。


 この映画における「学生闘争」とは歴史上の舞台としての60年代をものすごくリアルに描けてはいる。ただ、登場人物たちのメンタリティは、非常に「現在」的であるように見えた。それは山下淳弘監督や脚色した向井康介氏が、ボクと同年代であることと無関係ではないと思う。革命する。何を?セカイを。その漠然とした願いを持った男を、彼らは執拗に描く。


 この映画において、何故原作よりも梅山が詳細に描かれたか。ボクにはおぼろげながらわかる気がする。おそらく、活動のための活動をする男の、ダメさ加減に語り手が惹かれたからではないかと思う。もしも「僕ら」のようなメンタリティの人間が60年代末から70年代初頭を駆け抜けたとしながら。多分こんな感じになるだろう、という70年代生まれのメンタリティを色濃く反映させているように感じられた。
 僕らは当時を生きた人間にはなり得ない。「ホンモノ」の「革命者」には。しかし、それでも、その時代に放り込まれて、「セカイをカクメイする」と願った男は、嘘に嘘を塗り重ねて、やがてホンモノの嘘つきになる。「ホンモノ」になりたいと欲しながら、ジタバタする「フェイク」である僕らのように。


 沢田が願った「セカイ、変わってほしい/変える人間に関わりたい」という願いは裏切られ、彼は手ひどいしっぺ返しを食うわけだけれど、本当に彼が復讐されるのは、ラストに、センチメンタルに押し流して、記憶を頭の奥底にしまいこんだ、ある男との再会である。
 ボクはここで「うっ」となってしまった。忘れたはずの、見下していたはずの者にも人生があって、そして、自分よりもはるかに立派に人生を生きている。そして、それは、敗北感にうちのめされた沢田には、おそらくあまりにも不意打ちで、あまりにもまぶしく、あまりにも残酷なのだろうと思う。わけもわからず、涙を流してしまう彼の涙を、ボクはそう受け取った。


 この映画は、69年代末から70年代初頭を舞台にした物語に、語り手が自分たちを大きく反映させつつ、そのセカイと本気で切り結びながら、高い完成度で屹立させた傑作だとおもったのでした。(★★★★★)